ホームAVION ツアー日記麗しき五島列島・癒しの旅路

麗しき五島列島・癒しの旅路

麗しき五島列島・癒しの旅路

旅人:高城 英雄

3回目の福江島への旅立ち

 長崎の沖合にある五島列島は風光明媚、何といっても海が美しい。青空に映えるエメラルド色と濃紺の海とのコントラスト、白砂青松のビーチに立つと、春日を受けてきらきら輝く波頭などは、筆舌し難く詩歌の世界だ。出会う人々が優しい、都会と違い、訪れる人々をいつも気遣っていてくれている。
 そんな勧誘に乗って参加者したご夫妻は、結婚54周年記念で「絶対にツアーキャンセルはないのよね」と念を押してのことだった。そんなこんなで、私の3回目の五島列島への旅は始まった。 3月10日(日)3泊4日の日程で五島市・福江島の空港に降り立った。
 東京を出る時は小雪が舞っていたが、日差しが少しあるのに風は相変わらず冷たかった。今回はこのご夫婦に便乗しながら、中国伝来の仏教を1400年も前に日本仏教として確立させ、さまざまな奇跡と伝説を残した弘法大師の足跡を確かめてみようと思っていた。

早崎鼻と福江の海

早崎鼻と福江の海

  福江空港

福江空港

上空から見た福江島

上空から見た福江島

   


福江島の顔「鬼岳」

 空港には西海タクシーの平山さんが旧知のような顔で待ち受けていた。今回の滞在中は9人乗りのジャンボタクシーを貸し切っている。「今日は生憎の曇り、西風なので中国からの黄砂が視界を遮っていますよ」と平山さん。「大気汚染で大変だって聞いていたけれど、もう黄砂ですか」と1人がつぶやいた。
 ホテルに入るには未だ早い。空港に隣接している鬼岳から、鐙瀬溶岩海岸(アブンゼ)に車を走らせて貰う。九州百名山の一つである鬼岳は、僅か315mの高さだが300万年前の噴火でお椀を伏せたような形になった。下草が黄色く枯れて、離れて見ると坊主頭のように見える。
 頂上まで登るには2通りの径がある。渦巻状に造られた遊歩道と階段状になっている直線径だ。若い人たちは平気で直線径を選び頂上を目指して登って行く。私たちは整備されたう回路を歩き、途中にある天文台に立寄ろうと話し合っていた。辿りついてみると扉に張り紙があって"見学したい方は予め電話をして下さい"とのこと。入口を押して見たが固く閉まっていて入れない。ガイド役を兼ねた平山さんが「訪れる人が少ないから、天文台に人は常駐していないんですよ。電話予約で開けに来るんです」と教えてくれた。いつでも自由に入れるわけではないのだ。しばらく歩いていると、年配の夫婦が後から声を掛けてきた「こちらの方が年寄りには楽ですよね、行き着くところは一緒ですから」と渦巻状の径をゆっくりと消えて行った。行き着く処は一緒か・・・、なんとなく人生と同じだなと思ってしまった。"椿まつり"がとうに終わっているのに、今年は嬉しい事にやぶ椿の花が未だ健在で、あちらこちら花盛りで鬼岳の裾をルビーの首飾りのように取巻いていた。

鬼岳

鬼岳

  鬼岳山頂から福江湾

鬼岳山頂から福江湾

西海タクシー

西海タクシー

   


リアス式海岸・鐙瀬溶岩海岸

 眼下に広がる鐙瀬溶岩海岸は2億年前、鬼岳が噴火して流れ出た溶岩でできた海岸だ。五島には火山が沈下して、波や風などに浸食されて出来たリアス式の海岸があちらこちらにある。ここは全長10kmにも及ぶ入り組んだ溶岩の入江で、透き通った美しい趣のある海岸である。
海に突き出た岬の岩場に、釣り人たちが三々五々のんびりと竿を垂らしていた。今頃は何が釣れるのだろうか。

鐙瀬海岸

鐙瀬海岸

  菜の花と鬼岳

菜の花と鬼岳



空海ゆかりの寺・明星院

 五島八十八カ所巡拝の一番札所でもあるこの寺を、私は初めて訪れた。鄙びた田園地帯にある寺の名付け親は、空海(弘法大師)とされている。山門は歴史を感じさせる風格で、どっしりと構えている。護摩堂前庭には紅梅が咲いていて、常緑樹の木立に色を添えていた。五島最古の木造建築の本堂の中には秘物がある。
 空海がこの島に多くの足跡を残しているのは、遣唐使となって日本を離れた初夏の頃、風向きなどの理由で、三つある航路の真ん中の航路(最短)を選び、最後の寄港地として立ち寄ったことに始まる。以前来た時には、「往路は空海の乗った船団が風待ちで北端にある柏崎港に立ち寄り、(実際はずっと手前の水ノ浦教会近くにある白石港だった)水や食料を積んだ」ということを聞いていた。
 実際北端には、空海の日本を離れる際の言葉 "辞本涯"が記念碑となって建っている。その時は余り気にせずにガイドの話を聞いていたが、平山さんの話を反芻している内に不思議に思ったのは、何故空海が1年近くもこの島に滞在し、あちらこちらに足跡や伝説を残したのか・・ということだった。

明星院山門

明星院山門

  明星院本堂

明星院本堂

辞本涯

辞本涯

   


謎解きは明星院の住職の奥様が

 私たちをにこやかに本堂に導きながら話し始め「空海は国が派遣した遣唐使ではなく、今でいう私費留学生だったのです。当時31歳だった、有名でもなんでもない一介の僧でした。空海は非常に聡明な人物で皆さんが思い浮かべる聖徳太子のような人だったと言われています。従って、いろいろな人の引きを受けて、難しかった留学許可を桓武天皇から直に、ほんとうに特別におろしてもらったのではないかと伝えられていますが、定かではありません。留学許可の条件は20年長安で宗教、文化、芸術などの研鑽を積むということでした。
 しかし、遣唐使を乗せた船の道程は厳しく、804年6月、4隻の船団で出発しましたが、出てまもなく大嵐に遭遇し2隻は沈没し(帰着したともいわれています)空海の乗った船は35日の漂流のあげく中国の福州長渓県赤岸鎮に漂着しました。しかも、不運なことに海賊と間違えられるなど様々なことがあって不法入国者とされ、そこに足止めされたのです。
 空海は中国語を解していたので、監察使に宛てて書いた嘆願書が今もかの地に残っているそうです。その甲斐あって赦免されましたが、長安に着くまでおよそ3ケ月を費やしてしまいました。
 長安に着いた空海は新年の"朝賀の式"に参列後、まっさきにあらゆる経典の基礎である梵語を習得し、翌年の6月まで一年足らずで、密教の正当な継承者の観頂を伝授されたのを始め、長安の文化、芸術、土木技術などあらゆることを修めてしまったのです。そこで20年を待たずに帰路に着いたのです」と話を区切り、一息入れて再び話し始め「20年研鑽しなければならないという掟を破った空海は"闕期の罪"(ケツゴ)を犯したということで朝廷に参内することを許されず、五島に留まったのです。五島を離れた後も2年ほど大宰府に留まりました。
 空海は福江に到着して最初に大宝寺を訪れましたが、この寺に虚空菩薩像があると聞いて訪れました。空海はここで、参籠し満願の暁に明星の瑞光を拝したといわれています。その時空海は、"これから日本で衆生救済の為に広めようと考えていた真言密教は、正しいものである"というお告げであると確信したのです。そこで寺に明星院という名を贈って下さったのです」と少し間をおいた。



狩野派大坪玄能の"天上絵"

 「ここの格子天井には有名な絵があります」と上を指さしながら「天上絵を見て下さい、121枚の"花鳥絵"があります。これは狩野派の絵師大坪玄能が描いたもので、何故か中央には龍、脇に落款がありますが見えますか? 四隅には人頭鳥人絵が描かれています」と懐中電灯で四隅を照らした。中央の龍の絵は暗くて黒く定かでは無かった。
 私は、多分この本堂を建立した28代盛運公を擬して表したものではなかろうか、四隅の人頭鳥人絵を描いたものは、平和で楽しい治領だということを表したのではないかと想像した。「この人頭鳥人絵はインドでは加陵頻伽(カリョウビンガ)といわれるもので、極楽にいて美しい声で仏法を説いているそうです。この寺は明治以降一般大衆の寺となっていますが、もともと大衆の為の寺ではなく、五島藩主代々の祈願寺として建立され維持されてきたのです。」と説明が終わった。

 なるほど、だから空海は持帰った密教の経典などを五島で熟読復読しながら、日本にあまねく広める方法を考える時間を持つことができたのか。



弘法大師が最初に訪れた大宝寺

 仏教徒にとっては聖地ともいえる、日本三大秘仏(浅草・善光寺の聖観音像)の一つ"聖観世音像"が、島の西南にある空海ゆかりの寺、真言宗に改宗した大宝寺(1300年前建立)にある。住職があいにく不在だったので、平山さんがガイドしてくださった。
 「寺の始まりは701年中国の僧「道触」が来朝し立ち寄った際、勅命を受けて観音院を祀り建立したと言われています。福江島最古の歴史を持つ寺院で、第41代持統天皇の勅願寺でもありました。
 空海は中国からの復路もまた大嵐に遭いましたが、会得した法力と舳先に不動明王像を祀ると荒波が開け、航海することが出来ました。そして到着したのが玉の浦にある大宝という港だと伝えられています。(現在、玉の浦の入江は嵐の際、国際避難港となっている)
 空海は当時三輪宗であったこの寺を訪れ、日本で最初に真言宗密教の護摩法要を行い、三輪宗を真言宗寺に変えたとされています。空海が滞在中に彫ったといわれる千手観音が、本堂の中央に年輪を感じさせないお姿で安置されてあります。日本で最初に真言宗密教の法要を行ったと云う事で、東の高野山と並び西の高野山と称されていいます。ここには又、左甚五郎作といわれる猿の彫刻があります」平山さんの話はよどみなく、話しながらでも足の悪い人への気配りも忘れていなかった。私たちは本堂の四方の天井梁に刻まれている十二支は見たけれど、甚五郎作の猿の在りかを訪ねることを忘れていた。

大宝寺山門

大宝寺山門

  大宝寺鐘楼

大宝寺鐘楼

大宝寺千手観音   白寿観音

白寿観音



弘法大師霊場

 本堂の前には「弘法大師霊場祈願お砂奉安四国88ケ所巡拝御砂踏処」と書かれた大師堂があり、私たちは一歩一歩霊場の名前が書かれた敷石を踏みしめ、巡礼をしてきたつもりになった。
 五島にも八十八カ所巡拝の札所があるそうだが、ロマン溢れるそれぞれの在りかを短い旅で知る事はできなかった。しかし1番明星院、37番大通寺、83番宝泉寺、84番荒川地蔵、85西方寺、88番札所大宝寺などだけは分かった。お遍路さんの為の巡礼路はじょじょに整備されつつあるそうだ。そうなればこの美しい島を訪れるお遍路さんも多くなるかも知れない、私もお遍路さんになってまた、ロマン溢れる伝説を訪ねてみたいものだ。

大宝寺弘法大師霊場祈願処

大宝寺弘法大師霊場祈願処



祈りの島

 キリスト教の信者や仏教徒にとって、あるいは建築家にとってもこの島は特別の興味がある。豊臣時代と明治の初期に起きたキリスト教弾圧で、殉教者を多く数え、たくさんのキリシタンが拘引されて幽閉された狭い牢獄跡や、世を忍んだキリシタンが建てた民家のような教会があり、明治以降に建てられた、多くの美しい教会建築が残っているからである。
 日本の建築史に名を残している五島出身の建築家、鉄川与助が、木造、レンガ造り、石造りのほとんどの教会を建てたのだそうだ。現存している教会は50、県や国の指定文化財となっている5つの教会が含まれている。

祈りの島

祈りの島

  祈りの島

祈りの島2

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堂崎教会

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椿模様のステンドグラス



久賀島と旧五輪教会(下五島最古の教会)

 福江港から木口汽船のフェリーに乗って、幾つもの小島の間を縫い穏やかな海面を20分ほど進んで行くと、旧五輪教会がある船着き場に着いた。久賀島の説明は、木口汽船の木口さんがしてくださった。
 話によれば五輪には新・旧の教会があるがクリスチャンにとって重要なところであるらしい。当時九州から逃れてきたキリシタンが、官憲の目を盗んで外見は民家の様な木造の教会に集まり、祈りを捧げ励まし合っていたところだったからだ。海に面し裏山に接している木造の旧教会には尖塔もステンドグラスも無く、外見は本当に民家のような平屋であった。しかし内部には質素な祭壇があり、天井は傘を開いたようなゴシック造りになっていた。老朽化が進んでいるが、国の重要有形文化財となっている。
 今でもクリスチャンは海から来るか、徒歩で山を越えてこないとミサに来られないそうだ。この教会は1931年、理由は聞きそびれたが浜脇から移築されたものだそうだ。旧教会の脇に石造りの教会が新しく建立されていて、後背部の緑と青い空に映えていた。

旧五輪教会

旧五輪教会

  旧五輪教会の内陣

旧五輪教会の内陣

旧五輪内陣

旧五輪内陣

   


人間の業・牢屋の窄

 再び船に乗って5~6分で同じ久賀島の表玄関、田の浦港に着いた。ここから車に乗って浜脇教会や牢屋の窄(200人もの信者が6坪くらいのところに押し込められた)を見学した。色とりどりの花に飾られた百段くらいもありそうな階段を上って行くと、白い浜脇教会とその前に「牢屋の窄やルルド」、山に抱かれるように新しい鎮魂の墓碑が並べられていた。「宙に浮くような姿勢で押し込められていた人々は、身動きも自由に出来ない有様だった」と木口さんは語り、獄死した人たちの墓碑に洗礼名が刻まれてあったが、それらを指さし「高齢者と幼児ばかりでしょう。このように、弱者だけが命を落としたのです。食べ物は親指大の芋と僅かばかりの水だけでした」と話を続けていた。
 重々しい気持ちから逃れるように、山の向こうに広がる東シナ海を見ようと、車を走らせた。勾配のある折り紙展望所の峠を、互いに手を携えながら登って行くと、子供たちの白木の句碑が東シナ海を臨んで立っていた。皆爽やかな潮の香を胸一杯に吸いながら、眼下に広がる春の穏やかな海に見入っていた。

殉教者の碑

殉教者の碑

  浜脇教会

浜脇教会

私も一句詠んでみた。

波頭 春日を浴びて きらきらと
ひかるを見つつ 足湯に浸る (荒川温泉足湯にて)

辞本涯 大師の言葉 かみしめて
歩む路端に 波の華散る   (柏崎岬にて)

椿山に 白くふちどる まぼろしの
玉の浦花 凛と咲くを見る  (玉の浦椿を見て)



椿のこと「玉の浦」とは

 五島列島は椿の島と書かれてあったが、関東に住む私などは、椿と言えば大島しかすぐに思い浮かばない。五島の島々には、本当に椿の原生林や群棲林がそこ此処にある。椿は日本の花で飛鳥時代から自生していたようである。九州の太平洋側には「やぶ椿」、日本海沿岸の東北積雪部には「ゆき椿」が広く自生しているなどということを知ったのは、五島の椿を見て帰ってきてからのことである。だいたい"椿"も"さざんか"も区別ができないような自分にはそれが、栽培種ではなく、自生種だなんて思いもよらなかった。
 五島で有名なのは「玉の浦」という種類で五葉の花びらに白い縁取りがあるもので一度は絶滅に瀕してしまったそうである。説明によれば、玉の浦のやぶ椿群棲林で偶然見つかったものだそうだ。渡り鳥のハチクマの糞から、東北のゆき椿と自然交配してできたものだと以前ガイドから聞いた気がする。縁取りが白の覆輪は縁起物として珍重されているそうだ。

椿玉の浦

椿玉の浦

  椿

椿

藪椿の花

藪椿の花

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藪椿は花盛り



石田城と武家屋敷

 市の中心部に車を走らせると、人口2万4千のこぢんまりした清楚な街並みが見えてくる。「藩政時代は五島藩12,600石が治めていた島々で江戸時代末期、黒船の襲来に備えて幕府は最後に、三方海に臨んだ出城・石田城を築城したほどの重要な島だった」などの話を聞いていると、15分ほどでその石田城跡の石垣と武家屋敷が見えてきた。
 今見ると城の銃口は陸に向かって開いているが、海に向っていたとは、説明を聞かなければとうていそのようには思えない。ここの武家屋敷を取り巻く塀は変わっていた。塀の上に握り拳大の石が積み上げられている。それらは「こぼれ石」と呼ばれ、昔は、いざ敵襲来という時、敵が塀を乗り越えて来ようとすると、石が音を立ててこぼれることから来ているそうだ。また、それらは投げる武器としても使っていたようだ。

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石田城

  武家屋敷のこぼれ石

武家屋敷のこぼれ石

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武家屋敷

   


五島藩って本当に12,600石だった?

 「五島藩は12,600石だったそうだけれども、ほんとうにそうだったの? 島を一廻りしてみると結構な広さだし、もっと多い石高(こくだか)だったように思えるけれど」と参加者の一人が声をあげた、「そうなんですよ、当時のお役人が長崎から測量に来て、あそこに見える山くらいのところまでしか計測しなかったのだと言われています。あとは美味しいお料理などの供応を受けて・・、実際は80,000石くらいあったとのではないかと言われていました」と答が返って来た。「供応を受けて・・・昔も今も変わらないね。こんなに島の人々がおっとりして裕福そうにみえるのは、そのころからの隠し田のお陰で裕福だったからだね」「ええ、でも今は、美味しいお米や五島牛を宮崎や松阪に売っているからですよ」実際どこを訪れても立派な家々が多く、人々は穏やかでにこにことしていて優しかった。



海岸線はエメラルドと紫紺色

 今回は久賀島(ヒサガジマ)と福江島しか訪れなかったが、海岸線は本当に綺麗で美しかった。高浜海岸は日本一美しい海岸と紹介されているが、エメラルド色と白砂、沖の紫紺色のコントラストは、離れがたい美しさだった。波打ち際で貝殻拾いをしながら、波と戯れる人たちもいた。白砂に腰を下ろし寄り添いながら「心が癒される」とじっと海を眺めている人たちもいた。皆、青い空と白浜と潮の香に溶け込んでしまっているようだった。山が屏風のように隔てている隣の頓泊(トンパク)ビ-チも美しい海岸で一対になっていた。

高浜海岸

高浜海岸

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城島展望台から魚津ケ崎湾を望む

<高浜海岸の透き通った海

高浜海岸の透き通った海

   


日本一の夕陽・夕陽百選、大瀬崎断崖と灯台

 天気予報とは裏腹に、好天に恵まれた滞在後半、2日にわたって東シナ海に落ちる夕陽を見に、九州本土の最西端にある大瀬崎灯台へ車を走らせた。ル-プを描いて海に突き出た高さ150mもある断崖は、堆積岩の地層を美しく見せている。その突端に、明治12年に建てられた真っ白な灯台があった。
 太陽が落ち始めると海が赤紫色に変わり、光が一筋の線になって白亜の灯台を包んでゆく。やがて灯台はシルエットとなってしまう。
 光を失った真っ赤な太陽が水平線の上に浮かび、雲を黄金色に染めていった。息を飲むような静かな感動がそれぞれの胸に起きた。やがてすべてがシルエットになってしまうと、皆、ほっと溜息を吐いて我にかえった。陶酔の一時であった。

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大瀬崎の夕日

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大瀬崎の断崖

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大瀬崎断崖と海

   


伊勢エビと五島牛

 伊勢エビの炭火焼きは豪快だった、"椿茶屋"で最後の晩餐をした。いろりの端に座って赤々と燃える炭火に掛けられた金網の上に、生きたままの体長40cm以上もある伊勢エビを載せるのだ。そのままだと跳ねてしまうので、炭挟みのような金挟みで各自が押さえつけなければいけない。程良く焼けると給仕の女性が手際よく殻を剥いてくれる。「頭はみそ汁に入れて、後でお出しします」と持ち去った。
 平貝や鯵、五島牛などが野菜と共に出されてきた。五島牛はフィレの部分80gとのことだが120gはありそうだった。ミィデアムに焼いて食べてみると美味しかった。

イセエビの姿焼

イセエビの姿焼

  椿茶屋

椿茶屋

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囲炉裏の上の鯵と平貝

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五島牛の牧場



食べ物のこと

 名物の五島牛は、1回、2回の訪問時は生のトロ部分を握って寿司として食べて、まぐろと間違うほどのおいしさだったが、問題が起きてから今回は出していない。サイコロステ-キにして食べたが較べものにならないくらい旨い。
 魚は旬のものは少なかったが、割烹「心誠」や「か乃う」で、クエ(スズキ科でシマハタとも呼ばれている)、クロ(メジナ)、ヒラメ、ハマチ、鯵、箱ふぐ、伊勢エビ、さざえ、蛤、ミナ貝(つぶ貝より小さい)、平貝、水いか、牡蛎、ウニなど五島の魚介類を一通り味わった。
 美味しかったものは、酢牡蛎(小振りの大きさ)、クロの焼き物、さざえの天麩羅、伊勢エビの炭火焼きなどで、珍しかったのは割烹「か乃う」で食べた箱ふぐのテルミド-ルだった。



"あごだし"と"とりだし"?五島うどん

 書き忘れていたがもう一つ取って置きの美味しいものとして「五島うどん」があった。椿油を加えて練り上げたものだが、茹で上げて時間が経ってものびないと聞いた。うどんにしては細めだが、腰があって美味しい。あご(トビウオ)と鶏出汁の二通りの出汁があり、上五島ではあご出汁、下五島は鶏出汁で食べるのだそうだ。
 両方味わってみたが、あっさりしているものはあご出汁で、ややこってりしているのが鶏出汁だったが、両方とも結構美味しかった。



"こふひいや"のコ-ヒ-

 ご推奨の茶店"こふひいや"を訪ねた。栄町ア-ケード通りから横道に入ったところにツタに覆われた茶店があった。先客がいて、7人も入ろうとすると適当な席が無い。すると二人連のお客が「今席を空けますよ、私たちはカウンターで充分」と腰を上げた。もう店は一杯だった。ここのオリジナルケーキとコーヒ-は一番というので早速注文した。盆と正月が来たような客の頭数に、ご主人はてんやわんやであった。それでも「このオリジナルケーキの一つ"プリン"は東京の伊勢丹にも出していますよ」といいながら注いでくれたコ-ヒ-の香りはふくよかで美味しかった。島には喫茶店が結構な数ある。



五島は癒しの島!

 僅か3泊4日の旅だったが、旅仲間と天候にも恵まれた素晴らしい旅だった。 五島列島の在処もはっきりと分からない人も関東には多いが、長崎の沖合にある島々にはいろいろな趣がある。
 釣り好きの人たちやクリスチャンには昔から周知の島だそうだが、美しい海岸線と様々な歴史を秘めているこの島は、何度でもゆっくり訪れて見たい。観光開発されていない点も良い、長崎から船で渡ってく多くの観光客は、九州一周の旅の中で、僅か福江のホテルに1泊しかしないものが多い。
 従って島の西側に車を走らせれば、のどかな風景と人情味ある人たちとの出会いが多くあるし、たくさんの観光客に揉まれる事もない。けっして華美なホテルもレストランもある訳ではないが、素朴さと温かさがある島人たちと自然、何よりも美しい入江と夕陽を見せてくれる大瀬崎灯台と岬が待っている。
 私たちの泊まったホテルはカンパ-ナ、この島では、唯一のデラックスホテルだが、ロビ-が結婚式場として利用されるほど、日中ホテルの中でうろうろしている旅人はいないのだ。

花盛り

花盛り

  桜満開

桜満開

桃の花満開

桃の花満開

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菜の花満開

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黄水仙

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