恥ずかしがり屋のキリマンジャロ
旅人:高城 英雄
ナイロビからアンボセリへ
次の目的地、アンボセリ国立公園へ向かった。アンボセリへ行く目的は、キリマンジャロ山の美しい容姿を見ることが第一だ。出来れば、太陽を浴びて輝く冠雪を背景にして、印象に残る動物たちの写真を撮りたいという願いを持っている。
アフリカ縦断道路は、ナイロビからタンザニアとの国境ナマンガを通過して南に下っている。
ナイロビの郊外へ出た途端に、道路工事にぶつかりガタガタ道を20分くらい走らなければならなかった。アンボセリに行くには、国境の町ナマンガから東へ大きく迂回して行かねばならない。「うへ〜、利くぅ、このマッサ-ジは」と悲鳴を上げる道だが、ガタガタばかりでは無い。外気温が27℃くらいになって、窓を閉め切って走る、空調の利かない車内は暑くて大変だ。
窓を開けると砂埃が車内に舞い込んでくる。やっとアスファルトの道に出て、1時間ほど走るとまた工事中だ。あまりにもひどい悪路なので、車がパンクする有様だった。
延々と続く悪路はナマンガから更にアンボセリまで続いた。日は落ちて真っ暗になり、僅かにヘッドライトの灯りで照らし出されるガタガタ道を、砂塵を舞上げながら突っ走るのだから、この上もない疲労感に襲われた。
木立の合間から家の灯りが一つ二つと連なって見えた。「あそこが目的地に違いない」自分を励ますように誰かが声を上げた。見えた灯りは、なかなか近づかない。まるでオフロ-ド トラックを、目隠しで走っているようだ。やっとの思いで夜の8時、ロッジに辿り着いた。
ナイロビとナマンガ間は160km。悪路で名高いナマンガとアンボセリの距離は80kmあったのだ。
アンボセリ セレナロッジ
セレナロッジは、何処でも同じスタイルなのだろうか?えび茶色の家並みが、アカシアの林の中に寄り添うように建っていた。ガイドブックによれば、マサイの家をかたどった土饅頭型のロッジと書いてある。
部屋の中味は、マサイマラほどデラックスでは無かった。テラスも無いし、眺望も無かった。砂漠の中にある為、防砂林としてアカシアが植えられている為だ。しかし、ここのバスル-ムにはバスタブが付いていたので助かった。
長の悪路で腰にきていた痛みを、ぬるめの湯にゆっくりとつかってほぐすことが出来た。
夕食は9時までというので、手を洗い、口を濯いで食堂に急いだ。ビュッフェ式だが、ス-プとメインデッシュだけはテーブルサ-ブという方式だった。
結構美味しかったが、何しろ量が多いのには閉口した。
憧れのキリマンジャロ
夜が明けて、早朝サファリに出掛けることになっていた。5時に起床、5時半にはロビ-で、菓子パンやビスケットとコ-ヒー、紅茶の軽食をとり、6時半に出発だ。夜は白々と明け始めたが、黒い雲が覆っていて天候が心配された。 それでも、ロッジを囲んでいた林を抜けると待望のキリマンジャロ(5895m)が黎明の中でもくっきりと見えた。富士山型の裾野が広く長い山だ。折角見えた山の容姿に、あっという間に雲が懸かって、山頂を消してしまった。後5分遅かったら、全く見ることはできなかった。「良かったね、朝日を浴びて輝く山頂は、お天気が余り良くなくて撮れなかったけれど、見ることが出来て本当に良かった」誰ともなく溜息混じりに話し合っていた。
アンボセリのサファリって?
アンボセリは、比較的平坦なサバンナと砂漠、そこに湿地帯が分布しているところだ。キリマンジャロの噴火で、アンボセリ湖が埋め立てられて出来たからだ。
田んぼの畦道のようなカ-ト道を、サファリカ-に乗ってゲ-ムドライブする。のんびりと草をはんでいるヌ-の群れ、シマウマは決まって傍に群れを作っていた。マサイよりバッファロ-が多い。象が大家族で沼地に足を沈めながら、草を食べ、水浴びをしていた。ライオンがサバンナで昼寝をしていたが、マサイのように車の近くでは無い。望遠鏡でないとはっきり姿を捉えることが出来ないくらいの所だった。3頭ばかりが枯れ草の中に見え隠れしていたが、珍しい!1頭の雄と2頭の雌のように見えた。
雄は、だいたい4才くらいになると家族から離れる習性がある。雄が雌の中にいることは、未だ2〜3才なのかも知れない。繁殖期は3月から7月にかけてだから、もしかしたら兄妹なのかもしれない。
ガゼルやインパラ、バブ-ン、ベルベットモンキ-も数多くいたが、誰も、もう感動しない。散々見飽きたのであろうか。それでも、象やキリンには大きく反応するのはおかしい。ライオンや豹には、いつでも一層大きな歓声で、盛り上がる。ずうたいが大きくて可愛い仕草をする動物や、日頃あまり見ることの出来ない肉食獣たちなら何度でも、見て楽しいということだろう。
トルネ-ド(旋風)が天高く舞い上がった
平坦と言ったが、ここは海抜1400mの台地で、時々トルネ-ド(小規模の竜巻)が起こる。いたるところで砂塵を天高く、何本も巻きあげていた。
随分昔、南米のチチカカ湖を渡って旅をした時、ボリビアの海抜4000m以上の高原で、何十本ものトルネ-ドを恐ろしい思いで見たことが思い出された。
国境の町ナマンガ
ケニアからタンザニアに行くには航空便を利用することも出来るが、空港で時間を潰すことを考えると、車で走れば、2時間半くらいで国境の町に到達することが出来る。
国境にナマンガの町があり、ケニアとタンザニア領に二分されている。人口は2万数千人だといわれているが、国境付近には土産物屋が店を出していて、手工芸品や野菜、果物を主に並べている。価格はあって無いようで、100米ドルという木彫品が、三分の一くらいまで下る(決して正札は付いていない)。
更に交渉すると、決裂寸前には20ドルくらいになる不思議な商売だ。まるでバナナのたたき売りだが、叩くのは買い手である。
車は必ずトイレ休憩と称して立ち寄るが、そこには入出国書類が用意されていて、タンザニアに抜ける人が立ち寄れば、便利なようにはなっている。
車が路上に止まると、国境の町だけでなく、どこでも売り子がやってくる。誰に教わったか怪しい日本語で「安い安い100ドルだよ」を連発している。窓を閉め切っているのに、ガラスを叩いて哀願していた。
主な産業は農業だが、民意が低く、勤労意欲があまり無いようで、貧しい家々が並んでいた。
ナマンガはもともと19世紀までウガンダを含めた、東アフリカ三国の交易の中心的存在だったそうだ。しかし今ではその中心が、タンザニアのアリュ-シャに移っている。
国境通過は、VISAを予め持っている場合、出国書類を添えて出せば、問題なく簡単である。
タンザニア側・アリュ-シャ
国境を通過すると、同じナマンガでも雰囲気が変わる。21世紀に入るまではタンザニア側の方が貧しかったが、現在は家の造りや建材も、又人々の服装もケニアより少し良いような気がする。統計によれば、一人当たりのGNPはケニアとほぼ同じ350ドルくらいなのに不思議に思えた。
問題の道路は、同じアフリカ縦断道路なのにケニアより、はるかに良い。多少のえくぼがあっても強制的にマッサ-ジされるような、ガタガタ道ではない。
アリュ-シャは、ンゴロンゴロへの発着・中継基地なので、時間の都合でどうしても泊まらねばならなかった。
「アリュ-シャは、東アフリカの臍にあたり、交通の要害となっている。ここには、新旧の共同体事務局が置かれ、ウガンダの虐殺を裁く裁判や種々の国際会議が開かれている重要な町だ。又、タンザニアのHIVなど感染症対策本部も置かれてある」と私たちの車の運転を引き継いだミンディが話してくれた。
2泊もしていながら、アリュ-シャの町は通り抜けただけと同じで、散策することもなかった。車窓から見た限りでは緑が多く、歩いている人は身綺麗で、ことに、OLは颯爽として見えた。
ジャカランダの花
アフリカと言えば、ジャカランダの木が街路樹となっているところが多い。南アフリカのプレトリアは、町中紫に覆われる10月が有名だ。
「ここにはジャカランダの木は無いのかしら」誰かが聞いた。「ありますよ、ここにも街路樹として植えられてある通りがありますよ。これから通りますが早春なのでジャカランダの花は、未だ見頃ではありません」とミンディがホテルに向かってハンドルを切った。「ここがジャカランダ並木の通りです。太陽の当たるところの街路樹には、4分咲きくらいの紫色の花が咲いているでしょう」と上を見上げた。広い庭を持った個人の家の庭木に満開近い花が咲いていた。「ジャカランダを見ることが出来て幸せ」車の中から女性達の声があがった。
ホテル インパラ
泊まったホテル インパラは余り接遇も、アメニティも良いホテルでは無かった。
部屋では、バスタブの栓が無かったり、シャワ-カ-テンが無かったり、バスタブから落とした湯が洗面所一杯に流れ出て排水が悪かったりで、部屋替えをして貰うのに大わらわだった。折角ドライヤ-が付いていると書いてあるのにコ-ドが引きちぎられていて、肝心な器具が無くなっているような散々なメンテナンスだった。
唯一良かったのは、部屋によって、窓から万年雪を被ったキリマンジャロの山頂が、夕陽を浴びてうす桃色に輝いていた姿を拝むことが出来たことだった。
8月後半の東アフリカの天候
今年は、一向に天候が定まらなかった。インド洋に発生した低気圧が、東アフリカ一帯にかかって、夕刻から朝10時頃までは大概雨又は霧が発生していた。
夜は寒く、ベッドに暖房が必要だったし、無いところは追加のブランケットが必要だった。日中は太陽さえ出ていれば暖かく暑い日だってあったのに、私たちが帰った翌週には、ケニアで雪が降ったと、ニュ-スが報道していた。
早朝サファリでは、天蓋を開けて走るので、足下が寒く「寒い、寒い」を連発していた。膝掛けが必要なくらいだった。
「もっと温かい、着る物が必要だったわね」が一致した意見だった。