アビオンの皆様私たちとご一緒しませんか?
現在、参加される会員のお仲間が8人おられます。12名くらいで楽しく旅が出来たら嬉しいなと考えています。
一番大切なお食事については、朝昼はともかく夕食はメニューから好きなものを選びたいと南さんに頼んでいます。
※日程、旅行条件、取消料などの詳細に関してはお問い合わせください。
アビオンクラブ
アビオンインターナショナル(株)内 アビオンクラブ
電話:03-5436-6331 FAX:03-5435-6334
Mail: minami@avion-club.com
太陽が水平線に落ちかけて一瞬光をおとしたと思った、次の瞬間その太陽がUターン"して再び白銀の世界を美しく映し出す。沈まぬ太陽"だ。9月から4月までは、運が良ければいつでもカーテン状に踊るオーロラ(ノーザンライト)を見ることが出来る。木が一本も無い氷に覆われた不思議な世界。
世界自然遺産となっている大氷河が動いている。湾や海に轟音を立てて崩れ落ちる氷河は、南極やアラスカ、南米でも見ることが出来るが、ここは壮観な一大パノラマだ。
ヘリコプターで上空から、氷河をオールシーズン隈なく見ることだって出来る。日本からはどうしてもコペンハーゲンで往復2泊しなければならないが、アイスランドやアラスカでもカナダでも無いワンダーランドを一度は訪れてみたい。予算は55~65万円必要だけれど。http://www.avion-club.com/mytour/24_9.html
]]>5月の連休が終わって、少し落ち着いたところで町田のぼたん園の「ぼたん祭」が
始まります。毎年のことながら優雅で煌びやかなぼたんの姿は、人々を惹きつけます。
一度行った事があるなどと言わないで、初夏の訪れを味わいながら、ヒーリングフラワーとしてぼたんの花々に囲まれてみましょう。遅めの昼食は都会の隠れ家「霜月亭」で、
美味しいお料理と雰囲気を楽しみながら、もう一つの憩いの場を見つけてみましょう。
飲む天然アルカリ温泉水の「ホップスウォーター」です。
鹿児島県垂水市の地下1,000メートルから55℃の高温で湧出しており、ph(ペーハー)8.9と言われています。ご飯を炊いたり、お茶・コーヒー・焼酎の割水に、入浴剤としてコップ3〜4杯、洗顔後のスキンケアに、観葉植物に・・など様々な用途がお楽しみになれます。
是非お試し下さい。avion@otpi.co.jp
]]>毎年9月9日と10日、曜日に関わりなく催される片貝の花火大会は、ギネスに登録された未だ見たこともない世界一の四尺玉が打ち上げられる。是非一度見たい欲望に駆られて1泊2日で出かけた。心配された天候は予報とは裏腹に晴れだった。
同じ新潟でも、新潟市の花火は8月第一日曜日、"港開き"という名前が付いている。信濃川の万代橋と八千代橋の間と昭和大橋西詰めの河原や川中で打ち上げられ、見物客は大小の舟に乗りながら見るのが常だ。舟に乗れない人々は対岸の河原やビルやマンションの屋上などに上がる。川面に映る花火は素晴らしい。最後を飾る大スターマインは空と川面が合体して、息を飲むような美しさと衝撃を与えてくれた。一番の見物場所、橋の上は立ち止まり禁止。かつて万代橋の欄干が見物人の重量で川に落ちたことがあるからだ。
しかしここ片貝の花火は違う。山間の丘で打ち上げられるのだ。なだらかな丘陵地に桟敷が造られ、見物客の多くは桟敷席を購入して見物する。私たちは40〜50分離れた六日町温泉に宿を取った。19時半から22時半まで3時間"浅原神社秋季例大祭花火"と銘打った花火は特異だ。打ち上げられる花火15,000発すべては個人や団体がスポンサーで、一つ一つに願いや報告或いは主張が込められている。
人口4,000人ばかりの町に20万人もの見物客が県内外から集まってくる。
片貝の町はごった返していた。あちらこちらで神輿をかつぐ担い手の声が響いている。屋台が神社に続く細い道の両側に出ていて、混雑した人ごみを縫って歩くのは大変だった。
追悼花火は「オジイチャ〜ン、空の上から見ていてね!私たち(名前が呼ばれる)は皆元気でいるよ・・子供たちも大きくなったよ〜有難う」などと拡声器で紹介され、尺玉が3発段打ちで山間にこだまする。爆音は夜空に大きく傘を開いた花火の後に響いてくる。
尺玉1ケ40,000円、結婚、還暦祝、家内安全、会社の宣伝といろいろな奉納者が、それぞれの喜びや願い、報告などを込めて、ここに集まった人々に訴えるかのように打ち上げる。その物語を聞いていると誰でもほのぼのとした気分にさせられる。時の経つのも忘れて、打ち上げと打ち上げの間に紹介される物語に耳を澄ます。打ち上げ方も様々で段打ち、対打ち、連発などで35連発の尺玉が打ち上げられた時などは、絶え間ない音と光の競演に酔い痺れた。
山間で打ち上げる花火は川面に映える花火と違って、炸裂音がこだましてずしんずしんと全身に伝わってくる。
片貝は四尺玉で名を馳せているが、打ち上げられるのは一晩1発だけ、二晩とも正22時のサイレンを合図に、轟音とともに天空に炸裂する。フィナーレを飾る訳ではない。直径120cm、重さ400kg以上もある大玉が、長さ5.2m、厚さ1.8cm、重量4.5トンの大筒から800m上空まで打ち上げられて直径800mの枝垂れ花火の傘を開かせる。
四尺玉が出来た謂われは、隣の日本一と呼ばれる長岡の花火と、互いに大きさを競い合った結果だと聞かされた。片貝が三尺三寸を作れば、長岡が三尺五寸玉に成功する。負けまいと片貝が1985年9月10日、四尺玉を作り、打ち上げに成功して長岡の先を越した。そして「世界最大の打ち上げ花火」として同日にギネスブックに登録されたのだそうだ。それ以上の大きさは打ち上げが危険ということで競争を終えて、片貝に軍配が上がったのだという。
なるほど、だから片貝の花火は曜日に関係なく、9月9日と10日の両日に亘って開催されるのだ。
地図上で、そのほとんどが白く塗られたグリーンランド。
さぞかし厳格な自然と、圧倒的な奇景・絶景が横たわっているものと、『覚悟』していたけれど、全く別の意味で裏切ってくれた。"良い意味で" でもなく、"悪い意味で" でもない。まったく別の思いもよらぬ形で期待を上回った。
そこにはれっきとした人間社会があり、人々も、動物たちさえも人懐っこい。町で地図を見ていれば子供たちが近づいてきて案内してくれ、ちょっと挨拶を交わした相手であれば、車ですれ違うときにでさえ笑顔でブンブンと手を振ってくれる。(犬たちも「遊んでくれるの?」と言いたげな表情で寄ってくる)
なんだか日本ではなく、こちらの方が『母国』ではないのかという錯覚に陥りそうになってしまう。
それでも、この土地に五日間いて、彼らがにこやかでいる気持ちが理解できてきた。
夜中の23時を回っても沈まぬ太陽と、これに照らされて、黄金色や桃色に輝く氷山・空を見上げていると、暖かな気持ちになってくる。圧倒的でありつつ、畏怖ではなく暖かみを感じさせる景色というのも珍しい。
まだ日本ではあまり馴染みのない土地ではあるが、ぜひ多くの人に体感してみてほしいと思った。
出発すると間もなく、早朝から家を出ておられる方々にちょっとしたお腹の足しにと、お菓子と飲み物が配られた。添乗役の南さんは一人何役もこなしながらマイクをとって挨拶と恒例の運転手さん紹介をしたあとに、新東名サービスエリアについて話を始めた。「高速度道路沿いに今まではパーキングエリアと呼ばれるものしかなかったのですが、新東名には、地元の有名店や食堂を集め、さらに地場産業の製品展示など、それぞれの地域をテーマにしたサービスエリアが登場したのです。<憩・休息と交流>をすべてのSA共通のテーマとしているのです。しかもそれがゴールデンウイーク前だったので、話題性があって一気に新スポットとして注目されたのでしょう。少し間を置いてしまいアビオンクラブのこのバスツアー企画がヒットするかどうか心配していましたが、このように多くのメンバーに集まって頂き嬉しく思います。
さて、サービスエリアの呼称が横文字でNEOPASA(ネオバサ)に変わりました。NEOはNEW、PAはパーキング、SAはサービスエリアを意味しているのだそうです。何となく古くさいイメージを持って居た高速度道路公団が、民営化によって新しいものに挑戦しようとする意気込みを感じますね。今日は話題の中心になっているサービスエリア、沼津、静岡、浜松の3カ所の内2カ所へ参ります。最初に訪れる沼津は駿河沼津NEOPASAに名前が変わりました。駿河湾の海をモチーフにしていて、駿河湾を望むテラスが上り線の2階にあります。今日は曇っているから残念ですが、一望できる日などはきっと素敵でしょうね。海の波をモチーフとしているせいかテラスやトイレその他の場所は柔らかい曲線が使われています。どんな様子か行ってみてのお楽しみですね。
地産地消がモットーで地場の美味しいものや名物が並べられているそうですよ、どのようなものがあるのでしょう。お花屋さんもあるそうです。もう一つのモチーフAQUA ZONE(アクアゾーン)、水にちなんで素敵な女性用トイレがやはり上りのサービスエリアにあるそうです、是非帰りに行ってみましょう。」
平日のせいか道路が空いていてバスは順調な走りをみせていた。御殿場を過ぎて新東名の標識に促されながら走ってゆくと、車影が少ない片道2車線の道路に入った。新しいのに何故2車線なのだろうか、南さんの話によれば「計画は3車線で用地も確保されているけれども、予算の関係かなにかで主に2車線で造ったのだそうです。サービスエリアやインタチェンジ近くでは3車線になっているところもあります。いつでも必要があれば、用地買収がすんでいますので、3車線にすることが出来るということです」短いトンネルが多いけれども、照明がLEDのせいか圧迫感が無く広々とした空間を感じ、運転し易いなと感じた。又、思っていたよりも道路に山肌が迫っていないので、中央高速などとは違って、山間部を走っていても自然災害には強いような気がした。
「お昼は二番目のスポット、静岡NEOPASAにいたしましょう。美味しい魚や桜えびと釜揚げしらすの紅白天丼などあって評判が良いようです。静岡では長く止まりましょう。そこから上り線に乗り換えて、上下線共通の清水パーキングエリアに寄ってみましょう。ここは地場産業の車やオートバイが展示されていて、建物全体は車庫のイメージで造られているそうです。沼津では50分くらい自由に散策して頂いて、あとは一気に静岡までまいります。現在時間は11時です」皆は一斉に解き放たれた。
観光バスの駐車スペースは少なく、ハンデキャップの方々の屋根付き駐車場の広さが目についた。駐車場に入ると建物に光線状の徽章にも見える放射状の翼の下に、NEOPASA駿河沼津の標識が見えた。外から見た感じはちょっとしたアウトレットだ。中に入ると客入りが少ないせいなのだろうかフロアに充分なゆとりがあってゆったりしている。
それぞれの飲食店が壁面に屋台のように軒を連ね、ホールの中央部には適当に仕切られたテーブル席がある。これらの屋台群にはフードコートと洒落た名前をつけている。売店には商品が乙に澄まして並べられているように見える。雑然とした感じを出さないのが特徴なのかも知れない。それぞれのお店は短時間で勝負というより少し時間をかけて選んで購入して頂こうという姿勢に見える。一体どんな客層を呼び込もうとしているのだろうか?今までのパーキングエリアでは見られない高級感が漂っている。
上り線で噂のトイレを覗いた。それは中央のエスカレーターを上がった2階の右奥にあった「ウワッ!これ何、パウダールームには隣と仕切られた化粧台が並んでいる。円の壁を囲むように造られている個室トイレの数に比べて、中央に置かれてある手洗いの数と化粧台の数が合わないわ、パウダールームの数の方が多いなんて不思議・・」声があがった。室内は曲線を多用して柔らかさを出しているのが特徴だそうだ。パーキングエリアでは普通行列が出来るぐらい込み合うのに、一体どんな人たちがここで寛ぎながら利用するのだろうか。四月末にお披露目したばかりだからかとても綺麗で豪華な感じがした。プレミアムトイレと名付けられている。一体このプレミアムってどんな意味なのだろうか。
駿河湾が一望出来るテラスはやはり曲線を描いていて、壁面のガラスに沿ってテーブルと椅子が幾つも置かれてある。その一角に腰を下ろしてみた。生憎の曇りで海らしいものが見えるだけで視界不良だったが、眼下には緑の茶畑が広がっていた。それでも風に頬を撫でられていると、なんとなく気持ちが落ち着き癒されてくる。海岸に座って寄せては返す波を見ているような気分になってきた。
12時15分、静岡サービスエリアに着いた。
アパレルの店やメガネの店がある。「このような場所でアパレルやメガネなど買い物をするのかしら」「だってライダーとか運転している人には魅力があるのじゃないの」と誰かが誰かと話しているのが聞こえた。
アパレルはバンダイが出店しているお店だ。ここにはガンダムの立像が飾られ、ミニチュアカーやアパレルなどが売られている。メガネはiZONE NEW YORKドライバー用のグラスやファショングラスなどが置いてあった。
アビオンクラブの昼食は、いつもは何処か雰囲気の良いレストランか割烹料理の店を予約してあるのだが、今回はバスだけ仕立てて、食事はサービスエリアのフードコートで思い思いに摂って頂く趣向だった。何しろ地産地消を売り物していて地場の美味しい食材を提供しているとの触れ込みがあったからである。 私は地場のお魚が食べられるというので、駿河丸で焼津丼を頼んだ。器は大きく浅い中に薄く盛られたご飯の上にまぐろの赤身やネギトロが載せられていて一見量は多そうに見えるが、私にはちょうど良いくらいで美味しかった。若い人たちにはちょっと不満かも知れない。
余った時間をアンデルセンのパン屋さんの喫茶室で過ごした。不満を言えば、コーヒーも紙コップでは、味も雰囲気も半減だ。人手を省こうということかも知れないが、清水に限らず景色の良いところで、ゆったりした雰囲気の中、極上のコーヒーを素敵なカップで飲める、一軒くらいそんな喫茶店があってもよいのではないだろうか。そうなれば、デートスポットとしても一層人気が上がるだろうに、低コストで利益を生む方を優先しなければならないのだろうか。
ライダーの為の"自然と憩"をコンセプトとしてある為か、入って直ぐ乗用車とオートバイの展示されているのが目に入った。ここは上下線共通のサービスエリアで3店ものドライバー用のアパレルから靴、小物に至るまでの商品が揃えられている。上下線から集まってくるライダーたちとサービスエリアとのコミュニティを狙っているという姿勢が伺える。食べ物屋も13店とそれぞれの味が楽しめるようになっていた。
参加者の皆さんは思い思いに結構楽しんでおられた。帰りのバスには地場野菜や食品類を入れたショッピングバッグが笑顔とともにあった。
]]>好天に恵まれた5月8日、10時半頃町田ボタン園に着いた。ボタン祭りが済むと通常は入園無料となるが、今年は花持ちが良いせいか未だ有料であった。
"立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花"と美人の形容として古くからボタンや芍薬はたとえられていました。さしずめ、花言葉で言い換えると立ち姿は清楚で、座っている姿は高貴な風格を醸し出している。そして歩く姿は清廉で気品に満ち溢れているとでもいうのであろうか。
民権の森の緑に囲まれた東京ドームより広い園内には、屋根を設えた幾つもの花床にボタンと芍薬が、盛りは少し過ぎていたがたくさん咲いていた。広い庭園の木陰には床机台が散在していて、疲れたら休めるようになっている。
確か、昔来た時には地面に持参のシートを敷いて休んだり、食事をしたように記憶している。随分整備されたものだ。
札書きによればボタンは樹木、芍薬は草でいずれも生薬として唐や宋の時代から中国で広く栽培されていたのだそうだ。日本にもたらされたのは、遣唐使(弘法大師など)によって持ち込まれ、薬用として栽培されてきたと書いてある。観賞用として育てられ始めたのはやはり朝廷や貴族がいた奈良時代からだったのであろうか。ヨーロッパやフランスへも持ち込まれて育てられ多くの品種が生まれた。それらの品種の幾つかが園内に咲きそろっていた。
シンプルな花弁をつけているのはたいがい芍薬で、ボタンと見間違うほどの真紅の大輪もあった、名前はダイアナ。
鮮やかな色のボタンの大輪にはそれぞれに名前が付けられていた。白いものには伯爵夫人、小町、白鳥の湖。黄色いものには王冠、白が基調でピンクがかったものはフランス産で金閣、ピンクには玉芙蓉、八千代椿。変わった深紅の花に烏羽玉(ウバタマ)、ゴーギャンなどがあった。
スカーレット色の大輪はほとんど国産で今紫、新島の輝き、紫苑など。一つ一つ観察しながら歩いていると汗ばんできた。やはり五月の日差しは暖かさをこえている。一時間ばかりの時間はすぐ経ってしまった。
ボタンや芍薬の花一つ一つは大きく自己主張しているような風格があるが、何処となく一人のような寂しさが漂っているようにも見えた。それは若しかしたら、花びらに勢いを感じないからかも知れない。実際皺紙を折り、幾重にも重ねたような桃山、金閣やダイアナはドレスを着た貴婦人のようだった。
昼食はボタン園にほど近い霜月亭に予約してある。
鬱蒼とした木々や竹林に囲まれた洋館の佇まいは成程、都会の隠れ家といわれても不思議ではない。車止めの向こうには小川が流れている。
玄関で靴を脱ぎ、中に入るとメインダイニングと小部屋が二つと厨房が目に入る。木目も艶やかな床と白壁が落ち着いた雰囲気を醸し出している木造洋館である。
木のテーブルは年代を感じさせる。間もなくして、飲み物の次に料理が運ばれてきた。フレンチだが和を感じさせる。お箸で食べるようになっていて、私たち年配者には好都合だ。ほとんどの方々はお肉料理だったが、とても柔らかくて美味しいく、私たち年配者向きに料理されているようだった。お喋りと料理であっという間に2時間ほど経ってしまった。まだまだ別れ難い雰囲気だったが名残惜しみながらお開きにした。
]]> 長崎の沖合にある五島列島は風光明媚、何といっても海が美しい。青空に映えるエメラルド色と濃紺の海とのコントラスト、白砂青松のビーチに立つと、春日を受けてきらきら輝く波頭などは、筆舌し難く詩歌の世界だ。出会う人々が優しい、都会と違い、訪れる人々をいつも気遣っていてくれている。
そんな勧誘に乗って参加者したご夫妻は、結婚54周年記念で「絶対にツアーキャンセルはないのよね」と念を押してのことだった。そんなこんなで、私の3回目の五島列島への旅は始まった。
3月10日(日)3泊4日の日程で五島市・福江島の空港に降り立った。
東京を出る時は小雪が舞っていたが、日差しが少しあるのに風は相変わらず冷たかった。今回はこのご夫婦に便乗しながら、中国伝来の仏教を1400年も前に日本仏教として確立させ、さまざまな奇跡と伝説を残した弘法大師の足跡を確かめてみようと思っていた。
空港には西海タクシーの平山さんが旧知のような顔で待ち受けていた。今回の滞在中は9人乗りのジャンボタクシーを貸し切っている。「今日は生憎の曇り、西風なので中国からの黄砂が視界を遮っていますよ」と平山さん。「大気汚染で大変だって聞いていたけれど、もう黄砂ですか」と1人がつぶやいた。
ホテルに入るには未だ早い。空港に隣接している鬼岳から、鐙瀬溶岩海岸(アブンゼ)に車を走らせて貰う。九州百名山の一つである鬼岳は、僅か315mの高さだが300万年前の噴火でお椀を伏せたような形になった。下草が黄色く枯れて、離れて見ると坊主頭のように見える。
頂上まで登るには2通りの径がある。渦巻状に造られた遊歩道と階段状になっている直線径だ。若い人たちは平気で直線径を選び頂上を目指して登って行く。私たちは整備されたう回路を歩き、途中にある天文台に立寄ろうと話し合っていた。辿りついてみると扉に張り紙があって"見学したい方は予め電話をして下さい"とのこと。入口を押して見たが固く閉まっていて入れない。ガイド役を兼ねた平山さんが「訪れる人が少ないから、天文台に人は常駐していないんですよ。電話予約で開けに来るんです」と教えてくれた。いつでも自由に入れるわけではないのだ。しばらく歩いていると、年配の夫婦が後から声を掛けてきた「こちらの方が年寄りには楽ですよね、行き着くところは一緒ですから」と渦巻状の径をゆっくりと消えて行った。行き着く処は一緒か・・・、なんとなく人生と同じだなと思ってしまった。"椿まつり"がとうに終わっているのに、今年は嬉しい事にやぶ椿の花が未だ健在で、あちらこちら花盛りで鬼岳の裾をルビーの首飾りのように取巻いていた。
眼下に広がる鐙瀬溶岩海岸は2億年前、鬼岳が噴火して流れ出た溶岩でできた海岸だ。五島には火山が沈下して、波や風などに浸食されて出来たリアス式の海岸があちらこちらにある。ここは全長10kmにも及ぶ入り組んだ溶岩の入江で、透き通った美しい趣のある海岸である。
海に突き出た岬の岩場に、釣り人たちが三々五々のんびりと竿を垂らしていた。今頃は何が釣れるのだろうか。
五島八十八カ所巡拝の一番札所でもあるこの寺を、私は初めて訪れた。鄙びた田園地帯にある寺の名付け親は、空海(弘法大師)とされている。山門は歴史を感じさせる風格で、どっしりと構えている。護摩堂前庭には紅梅が咲いていて、常緑樹の木立に色を添えていた。五島最古の木造建築の本堂の中には秘物がある。
空海がこの島に多くの足跡を残しているのは、遣唐使となって日本を離れた初夏の頃、風向きなどの理由で、三つある航路の真ん中の航路(最短)を選び、最後の寄港地として立ち寄ったことに始まる。以前来た時には、「往路は空海の乗った船団が風待ちで北端にある柏崎港に立ち寄り、(実際はずっと手前の水ノ浦教会近くにある白石港だった)水や食料を積んだ」ということを聞いていた。
実際北端には、空海の日本を離れる際の言葉 "辞本涯"が記念碑となって建っている。その時は余り気にせずにガイドの話を聞いていたが、平山さんの話を反芻している内に不思議に思ったのは、何故空海が1年近くもこの島に滞在し、あちらこちらに足跡や伝説を残したのか・・ということだった。
私たちをにこやかに本堂に導きながら話し始め「空海は国が派遣した遣唐使ではなく、今でいう私費留学生だったのです。当時31歳だった、有名でもなんでもない一介の僧でした。空海は非常に聡明な人物で皆さんが思い浮かべる聖徳太子のような人だったと言われています。従って、いろいろな人の引きを受けて、難しかった留学許可を桓武天皇から直に、ほんとうに特別におろしてもらったのではないかと伝えられていますが、定かではありません。留学許可の条件は20年長安で宗教、文化、芸術などの研鑽を積むということでした。
しかし、遣唐使を乗せた船の道程は厳しく、804年6月、4隻の船団で出発しましたが、出てまもなく大嵐に遭遇し2隻は沈没し(帰着したともいわれています)空海の乗った船は35日の漂流のあげく中国の福州長渓県赤岸鎮に漂着しました。しかも、不運なことに海賊と間違えられるなど様々なことがあって不法入国者とされ、そこに足止めされたのです。
空海は中国語を解していたので、監察使に宛てて書いた嘆願書が今もかの地に残っているそうです。その甲斐あって赦免されましたが、長安に着くまでおよそ3ケ月を費やしてしまいました。
長安に着いた空海は新年の"朝賀の式"に参列後、まっさきにあらゆる経典の基礎である梵語を習得し、翌年の6月まで一年足らずで、密教の正当な継承者の観頂を伝授されたのを始め、長安の文化、芸術、土木技術などあらゆることを修めてしまったのです。そこで20年を待たずに帰路に着いたのです」と話を区切り、一息入れて再び話し始め「20年研鑽しなければならないという掟を破った空海は"闕期の罪"(ケツゴ)を犯したということで朝廷に参内することを許されず、五島に留まったのです。五島を離れた後も2年ほど大宰府に留まりました。
空海は福江に到着して最初に大宝寺を訪れましたが、この寺に虚空菩薩像があると聞いて訪れました。空海はここで、参籠し満願の暁に明星の瑞光を拝したといわれています。その時空海は、"これから日本で衆生救済の為に広めようと考えていた真言密教は、正しいものである"というお告げであると確信したのです。そこで寺に明星院という名を贈って下さったのです」と少し間をおいた。
「ここの格子天井には有名な絵があります」と上を指さしながら「天上絵を見て下さい、121枚の"花鳥絵"があります。これは狩野派の絵師大坪玄能が描いたもので、何故か中央には龍、脇に落款がありますが見えますか? 四隅には人頭鳥人絵が描かれています」と懐中電灯で四隅を照らした。中央の龍の絵は暗くて黒く定かでは無かった。
私は、多分この本堂を建立した28代盛運公を擬して表したものではなかろうか、四隅の人頭鳥人絵を描いたものは、平和で楽しい治領だということを表したのではないかと想像した。「この人頭鳥人絵はインドでは加陵頻伽(カリョウビンガ)といわれるもので、極楽にいて美しい声で仏法を説いているそうです。この寺は明治以降一般大衆の寺となっていますが、もともと大衆の為の寺ではなく、五島藩主代々の祈願寺として建立され維持されてきたのです。」と説明が終わった。
なるほど、だから空海は持帰った密教の経典などを五島で熟読復読しながら、日本にあまねく広める方法を考える時間を持つことができたのか。
仏教徒にとっては聖地ともいえる、日本三大秘仏(浅草・善光寺の聖観音像)の一つ"聖観世音像"が、島の西南にある空海ゆかりの寺、真言宗に改宗した大宝寺(1300年前建立)にある。住職があいにく不在だったので、平山さんがガイドしてくださった。
「寺の始まりは701年中国の僧「道触」が来朝し立ち寄った際、勅命を受けて観音院を祀り建立したと言われています。福江島最古の歴史を持つ寺院で、第41代持統天皇の勅願寺でもありました。
空海は中国からの復路もまた大嵐に遭いましたが、会得した法力と舳先に不動明王像を祀ると荒波が開け、航海することが出来ました。そして到着したのが玉の浦にある大宝という港だと伝えられています。(現在、玉の浦の入江は嵐の際、国際避難港となっている)
空海は当時三輪宗であったこの寺を訪れ、日本で最初に真言宗密教の護摩法要を行い、三輪宗を真言宗寺に変えたとされています。空海が滞在中に彫ったといわれる千手観音が、本堂の中央に年輪を感じさせないお姿で安置されてあります。日本で最初に真言宗密教の法要を行ったと云う事で、東の高野山と並び西の高野山と称されていいます。ここには又、左甚五郎作といわれる猿の彫刻があります」平山さんの話はよどみなく、話しながらでも足の悪い人への気配りも忘れていなかった。私たちは本堂の四方の天井梁に刻まれている十二支は見たけれど、甚五郎作の猿の在りかを訪ねることを忘れていた。
本堂の前には「弘法大師霊場祈願お砂奉安四国88ケ所巡拝御砂踏処」と書かれた大師堂があり、私たちは一歩一歩霊場の名前が書かれた敷石を踏みしめ、巡礼をしてきたつもりになった。
五島にも八十八カ所巡拝の札所があるそうだが、ロマン溢れるそれぞれの在りかを短い旅で知る事はできなかった。しかし1番明星院、37番大通寺、83番宝泉寺、84番荒川地蔵、85西方寺、88番札所大宝寺などだけは分かった。お遍路さんの為の巡礼路はじょじょに整備されつつあるそうだ。そうなればこの美しい島を訪れるお遍路さんも多くなるかも知れない、私もお遍路さんになってまた、ロマン溢れる伝説を訪ねてみたいものだ。
キリスト教の信者や仏教徒にとって、あるいは建築家にとってもこの島は特別の興味がある。豊臣時代と明治の初期に起きたキリスト教弾圧で、殉教者を多く数え、たくさんのキリシタンが拘引されて幽閉された狭い牢獄跡や、世を忍んだキリシタンが建てた民家のような教会があり、明治以降に建てられた、多くの美しい教会建築が残っているからである。
日本の建築史に名を残している五島出身の建築家、鉄川与助が、木造、レンガ造り、石造りのほとんどの教会を建てたのだそうだ。現存している教会は50、県や国の指定文化財となっている5つの教会が含まれている。
福江港から木口汽船のフェリーに乗って、幾つもの小島の間を縫い穏やかな海面を20分ほど進んで行くと、旧五輪教会がある船着き場に着いた。久賀島の説明は、木口汽船の木口さんがしてくださった。
話によれば五輪には新・旧の教会があるがクリスチャンにとって重要なところであるらしい。当時九州から逃れてきたキリシタンが、官憲の目を盗んで外見は民家の様な木造の教会に集まり、祈りを捧げ励まし合っていたところだったからだ。海に面し裏山に接している木造の旧教会には尖塔もステンドグラスも無く、外見は本当に民家のような平屋であった。しかし内部には質素な祭壇があり、天井は傘を開いたようなゴシック造りになっていた。老朽化が進んでいるが、国の重要有形文化財となっている。
今でもクリスチャンは海から来るか、徒歩で山を越えてこないとミサに来られないそうだ。この教会は1931年、理由は聞きそびれたが浜脇から移築されたものだそうだ。旧教会の脇に石造りの教会が新しく建立されていて、後背部の緑と青い空に映えていた。
再び船に乗って5~6分で同じ久賀島の表玄関、田の浦港に着いた。ここから車に乗って浜脇教会や牢屋の窄(200人もの信者が6坪くらいのところに押し込められた)を見学した。色とりどりの花に飾られた百段くらいもありそうな階段を上って行くと、白い浜脇教会とその前に「牢屋の窄やルルド」、山に抱かれるように新しい鎮魂の墓碑が並べられていた。「宙に浮くような姿勢で押し込められていた人々は、身動きも自由に出来ない有様だった」と木口さんは語り、獄死した人たちの墓碑に洗礼名が刻まれてあったが、それらを指さし「高齢者と幼児ばかりでしょう。このように、弱者だけが命を落としたのです。食べ物は親指大の芋と僅かばかりの水だけでした」と話を続けていた。
重々しい気持ちから逃れるように、山の向こうに広がる東シナ海を見ようと、車を走らせた。勾配のある折り紙展望所の峠を、互いに手を携えながら登って行くと、子供たちの白木の句碑が東シナ海を臨んで立っていた。皆爽やかな潮の香を胸一杯に吸いながら、眼下に広がる春の穏やかな海に見入っていた。
私も一句詠んでみた。
波頭 春日を浴びて きらきらと
ひかるを見つつ 足湯に浸る (荒川温泉足湯にて)
辞本涯 大師の言葉 かみしめて
歩む路端に 波の華散る (柏崎岬にて)
椿山に 白くふちどる まぼろしの
玉の浦花 凛と咲くを見る (玉の浦椿を見て)
五島列島は椿の島と書かれてあったが、関東に住む私などは、椿と言えば大島しかすぐに思い浮かばない。五島の島々には、本当に椿の原生林や群棲林がそこ此処にある。椿は日本の花で飛鳥時代から自生していたようである。九州の太平洋側には「やぶ椿」、日本海沿岸の東北積雪部には「ゆき椿」が広く自生しているなどということを知ったのは、五島の椿を見て帰ってきてからのことである。だいたい"椿"も"さざんか"も区別ができないような自分にはそれが、栽培種ではなく、自生種だなんて思いもよらなかった。
五島で有名なのは「玉の浦」という種類で五葉の花びらに白い縁取りがあるもので一度は絶滅に瀕してしまったそうである。説明によれば、玉の浦のやぶ椿群棲林で偶然見つかったものだそうだ。渡り鳥のハチクマの糞から、東北のゆき椿と自然交配してできたものだと以前ガイドから聞いた気がする。縁取りが白の覆輪は縁起物として珍重されているそうだ。
市の中心部に車を走らせると、人口2万4千のこぢんまりした清楚な街並みが見えてくる。「藩政時代は五島藩12,600石が治めていた島々で江戸時代末期、黒船の襲来に備えて幕府は最後に、三方海に臨んだ出城・石田城を築城したほどの重要な島だった」などの話を聞いていると、15分ほどでその石田城跡の石垣と武家屋敷が見えてきた。
今見ると城の銃口は陸に向かって開いているが、海に向っていたとは、説明を聞かなければとうていそのようには思えない。ここの武家屋敷を取り巻く塀は変わっていた。塀の上に握り拳大の石が積み上げられている。それらは「こぼれ石」と呼ばれ、昔は、いざ敵襲来という時、敵が塀を乗り越えて来ようとすると、石が音を立ててこぼれることから来ているそうだ。また、それらは投げる武器としても使っていたようだ。
「五島藩は12,600石だったそうだけれども、ほんとうにそうだったの? 島を一廻りしてみると結構な広さだし、もっと多い石高(こくだか)だったように思えるけれど」と参加者の一人が声をあげた、「そうなんですよ、当時のお役人が長崎から測量に来て、あそこに見える山くらいのところまでしか計測しなかったのだと言われています。あとは美味しいお料理などの供応を受けて・・、実際は80,000石くらいあったとのではないかと言われていました」と答が返って来た。「供応を受けて・・・昔も今も変わらないね。こんなに島の人々がおっとりして裕福そうにみえるのは、そのころからの隠し田のお陰で裕福だったからだね」「ええ、でも今は、美味しいお米や五島牛を宮崎や松阪に売っているからですよ」実際どこを訪れても立派な家々が多く、人々は穏やかでにこにことしていて優しかった。
今回は久賀島(ヒサガジマ)と福江島しか訪れなかったが、海岸線は本当に綺麗で美しかった。高浜海岸は日本一美しい海岸と紹介されているが、エメラルド色と白砂、沖の紫紺色のコントラストは、離れがたい美しさだった。波打ち際で貝殻拾いをしながら、波と戯れる人たちもいた。白砂に腰を下ろし寄り添いながら「心が癒される」とじっと海を眺めている人たちもいた。皆、青い空と白浜と潮の香に溶け込んでしまっているようだった。山が屏風のように隔てている隣の頓泊(トンパク)ビ-チも美しい海岸で一対になっていた。
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天気予報とは裏腹に、好天に恵まれた滞在後半、2日にわたって東シナ海に落ちる夕陽を見に、九州本土の最西端にある大瀬崎灯台へ車を走らせた。ル-プを描いて海に突き出た高さ150mもある断崖は、堆積岩の地層を美しく見せている。その突端に、明治12年に建てられた真っ白な灯台があった。
太陽が落ち始めると海が赤紫色に変わり、光が一筋の線になって白亜の灯台を包んでゆく。やがて灯台はシルエットとなってしまう。
光を失った真っ赤な太陽が水平線の上に浮かび、雲を黄金色に染めていった。息を飲むような静かな感動がそれぞれの胸に起きた。やがてすべてがシルエットになってしまうと、皆、ほっと溜息を吐いて我にかえった。陶酔の一時であった。
伊勢エビの炭火焼きは豪快だった、"椿茶屋"で最後の晩餐をした。いろりの端に座って赤々と燃える炭火に掛けられた金網の上に、生きたままの体長40cm以上もある伊勢エビを載せるのだ。そのままだと跳ねてしまうので、炭挟みのような金挟みで各自が押さえつけなければいけない。程良く焼けると給仕の女性が手際よく殻を剥いてくれる。「頭はみそ汁に入れて、後でお出しします」と持ち去った。
平貝や鯵、五島牛などが野菜と共に出されてきた。五島牛はフィレの部分80gとのことだが120gはありそうだった。ミィデアムに焼いて食べてみると美味しかった。
名物の五島牛は、1回、2回の訪問時は生のトロ部分を握って寿司として食べて、まぐろと間違うほどのおいしさだったが、問題が起きてから今回は出していない。サイコロステ-キにして食べたが較べものにならないくらい旨い。
魚は旬のものは少なかったが、割烹「心誠」や「か乃う」で、クエ(スズキ科でシマハタとも呼ばれている)、クロ(メジナ)、ヒラメ、ハマチ、鯵、箱ふぐ、伊勢エビ、さざえ、蛤、ミナ貝(つぶ貝より小さい)、平貝、水いか、牡蛎、ウニなど五島の魚介類を一通り味わった。
美味しかったものは、酢牡蛎(小振りの大きさ)、クロの焼き物、さざえの天麩羅、伊勢エビの炭火焼きなどで、珍しかったのは割烹「か乃う」で食べた箱ふぐのテルミド-ルだった。
書き忘れていたがもう一つ取って置きの美味しいものとして「五島うどん」があった。椿油を加えて練り上げたものだが、茹で上げて時間が経ってものびないと聞いた。うどんにしては細めだが、腰があって美味しい。あご(トビウオ)と鶏出汁の二通りの出汁があり、上五島ではあご出汁、下五島は鶏出汁で食べるのだそうだ。
両方味わってみたが、あっさりしているものはあご出汁で、ややこってりしているのが鶏出汁だったが、両方とも結構美味しかった。
ご推奨の茶店"こふひいや"を訪ねた。栄町ア-ケード通りから横道に入ったところにツタに覆われた茶店があった。先客がいて、7人も入ろうとすると適当な席が無い。すると二人連のお客が「今席を空けますよ、私たちはカウンターで充分」と腰を上げた。もう店は一杯だった。ここのオリジナルケーキとコーヒ-は一番というので早速注文した。盆と正月が来たような客の頭数に、ご主人はてんやわんやであった。それでも「このオリジナルケーキの一つ"プリン"は東京の伊勢丹にも出していますよ」といいながら注いでくれたコ-ヒ-の香りはふくよかで美味しかった。島には喫茶店が結構な数ある。
僅か3泊4日の旅だったが、旅仲間と天候にも恵まれた素晴らしい旅だった。
五島列島の在処もはっきりと分からない人も関東には多いが、長崎の沖合にある島々にはいろいろな趣がある。
釣り好きの人たちやクリスチャンには昔から周知の島だそうだが、美しい海岸線と様々な歴史を秘めているこの島は、何度でもゆっくり訪れて見たい。観光開発されていない点も良い、長崎から船で渡ってく多くの観光客は、九州一周の旅の中で、僅か福江のホテルに1泊しかしないものが多い。
従って島の西側に車を走らせれば、のどかな風景と人情味ある人たちとの出会いが多くあるし、たくさんの観光客に揉まれる事もない。けっして華美なホテルもレストランもある訳ではないが、素朴さと温かさがある島人たちと自然、何よりも美しい入江と夕陽を見せてくれる大瀬崎灯台と岬が待っている。
私たちの泊まったホテルはカンパ-ナ、この島では、唯一のデラックスホテルだが、ロビ-が結婚式場として利用されるほど、日中ホテルの中でうろうろしている旅人はいないのだ。
今年の春は遠く、東風がなかなか吹いてくれなかった。例年なら梅は1月末頃から咲き始め、見ごろは2月である。アビオンクラブの観梅ツアーは当然のように2月と決めていた。
毎日のように梅の花暦をインターネットで調べていたが、一向に花は咲く気配が無い。日本列島を南から上がって来る温かい空気と北から下りてくる冷たい空気がせめぎあっていて、何時まで経っても北の力が強く、春光さえも感じさせてくれない。私たちの観梅ツアーは延期せざるをえなかった。
3月に入って突然東風と南風が吹きだし、梅の花が開花し始めた。改めて参加希望者に打診を始め、一旦は3月5日を決行日としたが、日々変わる天気予報では雨風が強い日となってしまった。又、延期せざるをえない。天気予報と開花、それにレストランの予約の可否を睨みながら、最終的に3月8日とした。
人数が大幅に減ってしまった。当日は電車で国府津までグリーン車に乗って向かった。心配した天気は雨が落ちない程度で肌寒い。それでも和気あいあいと話しに熱中しているうちに時間はあっという間に過ぎた。
到着後、タクシーに分乗して曽我梅林口まで向かった。梅林に入った車窓から見ると「梅祭は終了しました。私有地ですから梅林の中に入らないで下さい」の立て看板が目についた。車から降りるとやはり拡声器で同じことを言っている。多少違うのは梅干しや梅製品を売っているから売店を覗いて欲しいというのが、付け加えられている。商魂とのミスマッチが面白い。三脚の先にカメラをセットした人たちが梅林の側道から顔を出す。ほとんどが年配者たちだ。
枝垂れ梅の林の中で3人の男女が三脚を立てていた。一番クロウトらしい男性がシャッターの構図をあれこれ指図していた。全体を見渡せる小高い場所から見ると梅の花は未だ6~7分咲きといったところか、一番の見頃はまだ先のようであった。
3区画位を歩きまわり写真をたくさん撮った。手袋をしていないと手が冷たく肌寒い。梅の花の、あの甘い香りがしないのは少し強く吹く風のせいだろうか。
それとも花粉症のせいだろうか?
曽我の梅林の歴史は古く戦国時代に遡るそうだが、明治時代位までは兵士が持つ食料の保存目的や薬効目的で栽培が諸国に大いに奨励されていたのだそうだ。日の丸弁当が生まれたのもこの頃だ。戦後食糧難時代にその多くが切られ、農家にとって収入の多い蜜柑や代替食料の栽培が行われたのだそうだ。
昭和32年に再び梅の里を復活させるプロジェクトが立ちあげられて、今日のような梅林が出来あがって来た。梅の品種は大雑把に3種の梅に分けられ、早咲きの梅は、小田原を代表する十郎、杉田、曙、それに南高梅などがあり、遅咲きの品種としては加賀、受粉の品種で梅郷、竜峡小梅、甲州最小など35000本が植えられている。
しかし、梅林には品種説明が書かれていないので、どれがどれの花だか見分けがつかない。6~7分咲きと思われたのは、実際は遅咲きと早咲きが入り混じっていてそう見えたのかも知れない。もともとここは鑑賞用ではなく加工用だから栽培者にとって、育成・作業しやすいようにしたのだろうから、いちいち名前を鑑賞者に知らしめる必要がないのだろう。
枝垂れ紅梅は綺麗だった。青白い枝をした枝垂れ白梅は未だ花を多く咲かせていなかったが枝垂れ紅梅とのコントラストがとても妙を得ていた。
写真を撮っている人には少し不満の様子だったが、余りにも肌寒いので鑑賞を50分くらいで切り上げる事にした。
昼食は国府津館だ。再びタクシーを呼んだ。もともと地上にあった国府津館の母屋は火事で焼失し今は無い。左脇の階段を海に向かって下りて行くと、木造の割烹旅館が左右の建物に分かれてあった。明治の時代から多くの文人や有名人、軍人たちが宿をしていたので、為書きのある書が多く残っていると言われている。太宰治の"斜陽"がここで逢瀬を重ねた太田静子の斜陽日記と二人の逢瀬のドラマでできあがったのだという話を店主から聞いた。
今回は椅子席のある洋室を貸し切ってある。 ここには魚博士とよばれる先代当主が客に魚の話をしてくれていたのが有名だったが、今は年老いて若主人に変わっている。魚を主体にしたお料理を頂きながら、様々な話題に時間を忘れた。 建物と海との間にバイパスが走り、大いに景観が変わってしまっているが、やはり海の見える部屋は心が和む。誰かが小さな庭の木に"めじろ"が止まっていると指さした。寒いといってもやはり春を胸一杯に感じた。
午後は小田原に出て"ういろう"や干物屋でのショッピングと"豆の木"で美味しいコーヒーを味わおうということになった。
]]>原宿・竹下通りを1本入った"ブラームスの小経"というロマンチクな小経に一際目立つ、ジャルダン・ド・ルセーヌという小粋なフレンチレストランがある。当日のお客様54名は、18時の開場までに思い思いの服装で集まってこられた。ほぼ全員がアビオンクラブの会員、新しく立ち上げたアビオンインターナショナル株式会社を熱心に応援してくださっている皆様だ。
ここでの演奏会は2回目、定員が58名といわれているが、54名でもかなり手狭に感じる。 18時40分古橋ユキさん率いるタンゴ楽団(ピアノは竹本真理さん、バンドネオンは新進気鋭の北村聡さん)の演奏が始まった。今回は食事と演奏をほぼ同時に始める事にしてあった。
ウエイターさんたちは演奏の邪魔にならないように気を遣いながらてきぱきとフルコースのお料理をサービスして下さっていた。
演奏は一部と二部に分かれ、ほとんどをアルゼンチン・タンゴで1時間20分、琴線を揺さぶられる切なくも妖しく、ロマンチックと哀愁が交差した響きに酔いしれ、アンコールは3曲、好評のお料理とともに終宴した。
成田を19時10分に出発して18時間40分、現地時間の21時47分にイエローナイフの空港に降り立った。飛行中の空はあんなに晴れていたのに、イエローナイフは薄曇りで、時折白い月が、流れている雲の合間から顔を出していた。
長旅だったが、案外皆元気だ。税関を出ると出迎えの大塚社長が大きな袋を持って待っていた。袋の中味は毛糸の帽子とネックウオーマー、親指が分かれた大きな手袋とフード付きダウンのパーカ(アノラック)、ズボンと防寒靴が入っていた。これらは予め知らせてあった参加者の身長や靴の文数に合わせてある。
いそいそと身支度をして、車に乗り込んだ。外は一面の雪、パウダースノーだ。気温は零下10℃だというが、着替えたせいかとても温かい。
オーロラとの出会いは不定である。今の天候だと見られそうだ!と言われると、探索に出掛けなければならない。日本から着いたばかりの私たちの車は町から25kmほど離れたデタ村に急いだ。運転手兼オーロラーガイドの大塚さんが、時折空を眺めながら慎重に運転していた。突然車を止め、カメラを持って外に出た。「皆さん降りて下さい。オーロラの子供が見えますよ」大塚さんが私たちを呼んだ。私たちもカメラを持って車から飛び出した。大塚さんは空を指さして「あの白い雲のように見えるのがオーロラです」「えっ、あれが?只の雲のようだけれど!紫や青では無いの?」「そうです、間違いありません。多くは最初白なのです」皆の頭には綺麗な色をしたカーテン状のオーロラがあって、なかなかその説明には頷けない。
「キャンプに急ぎましょう。チャンスは五分五分ですけれども」再び車に乗って急いだ。
大塚さんは私たちに希望の光をあたえるように、「イエローナイフは北欧諸国よりオーロラ帯がカナダに傾いているうえ、天候が比較的安定しているので、3連泊すれば、見える確率は95%です。ほとんど大丈夫と言って良いでしょう。残りの5%は皆さんがどれだけ強く見たいと思っているかにかかります」と話してくれた。「私たちは3連泊するから、絶対大丈夫よね。だって絶対見たいのだもの」と女性の一人から絶対に力を込めた声を上げた。その上、これから向かう先が「デタ村」というのだから縁起が良い。
戸建の山小屋風のキャビンは、10畳二間ほどの木造りの建物で、中には赤々と薪ストーブが燃えていた。入口近くにソファーが置かれ、織物が敷いてあった。中央部には、長机の上にご当地インディアンの手芸品が並べてあり、椅子が6~7脚ほど置かれてあった。希望すれば、刺繍や縫物を指導してくれるのだという。
キッチンらしい場所の壁際には、この小屋の持ち主であるボビーさんが焼いてくれたパンの入った籠が置かれ、スープやコーヒー、紅茶類のティーバッグが箱ごと無造作に置かれてあった。熱湯の入ったポットは、大塚さんの奥さんが作ったお菓子とともに持ち込んでいた。
電気は自家発電だそうで、照明は充分にある。
「今晩は、夕食は無いの?」誰かが云った。「そうですよ、今は夜中の12時、小腹が空いた人の夜食として並べられてあるパンやお菓子、足りない方はスープ麺などを召しあがって下さい」そう言えば、今日一日は何となく眠り、機内食2回で過ごしてきたから、お腹が空くのは無理もないのかも知れない。
待ちきれない人たちが、時折戸外に出て空を見上げては帰ってくる。月が時々顔を出す以外変化は無い。カメラを三脚にセットして月を撮る。「白く見える雲かオーロラか見分けがつかないものを写して見ると、オーロラであれば怪しい光を探し出すことが出来ます。この12月は青が基調で赤はほとんど見る事が出来ません」と大塚さんは説明する。
キャンプに戻って暫くすると、外にいた女性が「オーロラが出た」と歓声を上げてキャビンに飛び込んできた。皆おっとり刀で外に飛びだしたが、オーロラはもう既に消えていた。「白い雲の様な筋に青い光が見えたの、確かにあれはオーロラよ!」オーロラを見たのは8人中2人だけ。本当にラッキーだ、あの2人は。
このような状態が3晩も続いて、2人を除いた皆は諦めモードになってしまっていた。
犬橇の事務所で出会った他の旅行者たちに、オーロラを見たか聞いてみると、「今日で5日目だけれど全く見ていない」。「私たちは2泊の旅、今日帰るけれど、見られなかったわ」という返事が返って来た。今年の12月は暖冬で、気温が-10℃位のせいかも知れない。暖冬だと雲が発生しやすく、例え高空にオーロラ現象が発生しても見る事が出来ない。イエローナイフに来れば絶対に見る事が出来る、という神話は完全に崩れた。
私たちはデタ村の3夜の中で、柱を三角に組んで帆布を張ったテントに誘導され、オーロラに出会えない私たちを慰めるかのように、カリブーの肉を焚き火で焼いて食べさせてくれた、優しいボビーの思い出と、犬橇の体験を抱いて帰路に就かなければならなかった。
もう一度今度は3月に来ようと胸に誓いながら。
3日目の午後、犬橇体験ツアーに全員で出掛けた。町を離れると直ぐ大きな看板が見えた。「ベックケンネルズ」右に折れると入り口だ。犬小屋がたくさん並んでいる。犬たちの鳴声があちらこちらから上がっている。「ここのミスターグラント・ベックさんは犬橇の世界大会で何度も優勝した方で、オフイスに入るとたくさんのトロフィーが飾ってあります。犬橇を自分で操ってみたい人と、5~6人乗りの橇に乗ってベックス湖を一周されたい方の2班に分かれます」大塚さんの説明の後、車から降りてオフイスに入った。
なるほど、たくさんのトロフィーがあちらこちらに置かれてある。部屋は普通の家の応接室のようで温かい。話によれば、ここは宿泊施設の一部なのだそうだ。道理で、優しい雰囲気が漂っていた。
暫くして外に出た。ここでは訓練士が一番上、次はお犬様、三番目がお犬様の世話係だそうだ。その世話係の人が橇を曳く犬たちを物色中だった。世話係が檻に近付くと犬たちは一斉に吠える。自分が曳く!自分が曳く!曳きたい!とでも言っているのだろうか。
4頭が繋がれた橇で出発だ。1人は座席に、1人が椅子の後に掴まって、足を橇の上に置きブレーキ操作を教わって、ブレーキを離すと一斉に犬たちは走り出した。なんでも、観光用の橇の先導犬は若い犬で、本番のレースに向けての訓練を兼ねているのだそうだ。ちょっと急な坂道は上るのが大変で、4頭では橇が止まってしまう。御者台に乗った者は片足で雪を蹴り、犬たちを助けなければならない。ブッシュを抜けて、やがてベックス湖に出た。湖は今、広い雪原になっている。先導犬は私たちに「大丈夫?」とでも云うように時々振り返りながら一生懸命走っている。すこし前を走っていた橇がひっくり返った。ところどころ雪原に湖面の水が浮いて出来たシャーベット状のところがある。そこを避け切れずに突っ込んで、バランスを崩したのだろう。私は身体を右に倒し、橇を右手に誘導してことなきを得た。途中で交代しながらベックス湖を一周した。犬たちのスピードが落ちかけた時、「ほう、ほう、ほーれい」と声を掛けると犬たちは又一生懸命に走りだす。
橇の付いたスノーモービルでベックス湖面を走って行くと、もう一つの湖グレイス湖に出た。湖の中央部近くに竿が離れて立てられている。2本目の竿のところで私たちは橇から下りた。二人の魚師は湖面に開けられた70cmくらいの穴に手鍵(フック)を入れて何やら2本の綱を曳き出した。それを持って10mくらい後方に引っ張って雪の上に置いた。雪氷の厚さは未だ30cm位だと云う。私たちは最初の竿まで歩いた。二人は同じように最初の竿近くに開けられてある穴にフックを入れて綱を引き上げ、綱引きのように曳き始めた。暫くすると網が出て来てところどころに魚が引っ掛かっている。40cmくらいの丸々太った魚たちだ。ホワイトフィッシュ、恐ろしい顔をしたコッド(鱈の一種)にイワナと3種類くらいだ。みるみる20数匹になっていた。そこで網を元に戻し、無造作に拾い集めた魚たちを、ダンボール箱に投げ込んで一巻の終わりである。氷を割ってのイワナ釣りには氷の厚さが未だ充分ではないそうだ。
イエローナイフの観光に出掛けた。この町は地下資源が豊富でダイヤモンド鉱脈や金鉱が発見されて、ダイヤモンドラッシュ、ゴールドラッシュによって出来た町だそうだ。最初にできた、ごく普通のしもた屋風の銀行が残っていた。そこを過ぎるとちょっとした藪があって、その枝に白いハトより大きな鳥が数羽止まっていた。大塚さんが車を止めて「雷鳥です。カナダの雷鳥はハリモミライチョウと呼ばれています。日本の雷鳥との違いは日本アルプスのような高山地帯では無く、このように人が住んでいるところでも多く見ることが出来るのです。飛ぶ事も出来るのですよ」皆はこんなに近くにいる雷鳥におどろきながら、夢中でシャッターを切っていた。「イエローナイフの雷鳥は、まるで人間を仲間か何かと間違えているのではないかと思うくらい、人が近付いても逃げないのです。雪が降って白い色となった雷鳥は見分けがなかなかつかなくて、車に轢かれる事もあるんですよ」。車を走らせている途中でも、数羽の雷鳥が道端でたむろしていた。
昨日まで晴れていたのに、珍しく雨空になった。
10時飯田橋の西口を出ると、今日のガイド役を引き受けて下さった地元の坂本さんが粋な和服姿で待っていてくれた。
大昔この一帯は草地で沢山の牛が放牧されていたところから牛込とよばれていたのだそうだ。その後、日本が統一されてゆく過程で、豪族の間で幾つかの国取り合戦が続いた。
800年ほど前に今の群馬県赤城山付近に居を構えていた豪族大胡氏が、氏族の鎮守であった赤城神社の分霊を持って牛込に赤城神社を鎮め、城を築いて今日の日比谷あたりまでを治めたというのがどうやら始まりかも知れない。何故牛込に居を構えたか、史述は諸説様々あるそうだ。いずれにせよ、徳川幕府が赤城神社を江戸の総鎮守と崇めて、日枝神社、神田明神と並んで、江戸の三社としたのがこの街の栄えてきた要因であるに違いない。
徳川が江戸に幕府を構える以前、現在の神楽坂を除いては、整然とした城下町様なものは無かったといわれているから、大胡氏の牛込への移住は城下町形成にそれなりの意義があったのだろう。
渡された手許のパンフレットを見ると、いくつかの疑問については一応書いてある。一読して頭に入れ、歩き始めた。神楽坂下から眺める風情は横文字が立文字に入り混じって、突出看板やら歩道に置かれている看板が赤、緑、黒などの色で賑やかに彩っていた。
神楽坂を少し上った所の右側に老舗"紀の善"がある。明治の昔から寿司屋としてあったものが、戦後甘味と和食の店となった。今では何時でも人で混み合っている。寄ろうと思ったが長い行列に辟易して止めてしまった。
この"紀の善"を右に折れると"神楽小路"、細い路は嘗て花柳界で賑わった界隈の入り口だったのだろうか。ガイドの坂本さんが紀の善について一通りの話をした後で、神楽小路を抜けて私たちを軽子坂下に案内した。「神楽坂と並行しているこの道は鎌倉時代からあった重要な道です。どうして軽子坂の名前が付いたのか、謂れは江戸時代に交通や運搬の利便を図る為に、江戸城の外堀として運河が掘られたことに始まるのです。そして、この辺りに津がおかれ、あちらに見える神楽河岸(飯田橋駅北口あたり)で、諸国から運ばれて来たたくさんの荷が水揚げされました。大勢の人夫たちが軽籠を背負って運んでいたことからきたのですよ」今の軽子坂はすっかり地上げされ、新しいビルが軒を連ねていて往時を偲ぶこともできない。
坂を上って"かくれんぼ横丁"に私たちを誘い入れた。かくれんぼ横丁の呼称の由来についてもいろいろ聞いていたが、ここで生まれ育った坂本さんはあっさりと「僕たちが子供時代ここでよくかくれんぼしたものですよ。通りに呼称が無かったものだから、僕たちが"かくれんぼ横丁"と付けたのですよ」と説明した。あまりロマンチックな響きは無いがまあ良いか。しかしそれとは裏腹に、細い石畳の道の両側には、黒塀の料理屋が点在している。
丁字路を突き当って、兵庫横丁に抜ける石畳の細い路地には、ちょっと瀟洒なサロン・ド・テなるフランス料理の店が和建築の間に顔を出していて、横文字の店もちゃんと所在を主張している。
この辺りには"和の風情"が色濃く漂っている。これで、蛇の目傘でもさした和服姿の人がちょっと顔をそむけながらつま先に雨除けをつけた"こっぽり"で楚々と歩き、どこからともなく三味線の音でもかすかに聞こえていたらもうたまらない。きっとこの雨も気にならないだろうなどと思えた。
本多横丁から兵庫横丁に入ると和の趣は一層色濃くなる。文人に愛された黒塀の旅館"和可奈"や風格のある料亭"幸本"などがあり、その先は数段の階段が繋がっている。摺れ違った女性たちの会話が耳に入って来た。「細い路地と階段って危ないわよね。歩き辛いわ」全くやぼな観光客たちだ。私たちはこの風情や趣を訪ねて、往時の良き時代を偲んでいるというのに。
階段を上ると、細い鍵の字形の路地になっている。左に進むと、坂本さんが立ち止った。「暑い夏でも冷房機を置かないという椿の木に囲まれ、簾を下げた風変りな居酒屋"伊勢藤"がこの角にあります。ここは一汁三采、酒は日本酒しか出さないという店ですが、和の雰囲気も味も抜群だと人気の店ですよ」と説明する。その前にはどういう訳か、フランス居酒屋ブルターニュが緑の日除けを突き出している。しかし振り返って見るとこの両者が釣り合っているからなんとも不思議だ。かくれんぼ横丁も良いが、この兵庫横丁は神楽坂で和に浸る一番の所ではないかと思った。
通りを抜けた突き当りに毘沙門天がある。神楽坂を登りきったところで坂はここから再び下りに向かって行く。毘沙門天はほぼ中央にあるところから神楽坂繁栄のシンボルとして親しまれている。毘沙門天は寅の年の寅の月、寅の日の寅の刻に生まれたところから、毘沙門天の左右には狛犬ならぬ狛虎が鎮座している。
寅の日と併置されているお稲荷さんの午の日には縁日で賑わうそうだ。年四回、寅の日にはご本尊の御開帳が行われる、次回は来年1月16日だそうだ。
ミシュランの星を一つ貰っている"うを徳"は明治の始めから伝わる、尾崎紅葉や泉鏡花に愛された由緒ある料亭だ。今日のもう一つのイベントは、このうを徳で芸者さんの舞を愛で、三味線の音色を楽しみながら昼食を摂ることだ。黒塀の門を入ると、一間ほどの玄関がある。入ってすぐ右手にある古びた階段を上がり大広間に案内された。いかにも古い建物で往時の艶やかさを偲ぶことはできない。
それでも、食事と同時に芸者さんや88歳だと云う三味線の地方さんが、若々しい立ち居振る舞いでお酌やお給仕をしてまわると一遍に座が華やぎ和んだ。
一通り食事が終わるころ、芸者さんの舞が三味線の音に誘われるように始まった。立ち居振る舞いがなんとも優雅である。頃会いをみてお座敷遊びの紹介が始まった。"金毘羅ふねふね~"の三味線の音に合わせて、肘かけ台の上の中央に置いた酒の袴を、向き合った者同士で取り合うというゲームに誘った。
いつの間に聞き出していたのか、小唄をやっているお客様を芸者と地方が一緒になって"酒は飲め飲めのむならば~"を唄いましょうと緋毛氈(ひもうせん)の上に誘っていた。こうしてあっという間に2時間が終わったが、いかにも楽しい一日であった。
9月25日の午後12時32分快晴のコナ国際空港に降り立った。出迎えていた女性ドライバーが「皆さんはラッキーですね、先週末は悪天候がハワイ島全体を襲って大変だったのよ。でも翌朝はマウナ・ケア山頂が初冠雪に覆われていて綺麗だったわ。ぜひ見せてあげたかったわ。例年雪の神様"ポリアフ"が素敵な景色をプレゼントしてくれるのは11月くらいなのよ」と話してくれた。
う~ん、マウナ・ケアの雪景色か、見てみたい。
私たちはホテルキングカメハメハに直行した。未だ13時だというのに直ぐに部屋が貰えた。1975年からある古いホテルだが、2002年に改修されて全てが新しくなっているのが売りとなっている。その上、ロケーションがとても良い。街が目の前から海岸沿いに広がり、リゾート地の雰囲気が一杯である。
昔は街に出ても、みやげ物屋や釣り舟屋さんの屋台がぱらぱらあっただけだと記憶しているが、随分開けたものだ。
エレベータに向かう回廊の左右にビニールシートが張られていて、終わった筈の工事がまだ続いていた。不思議に思って開店しているお店の人に聞いてみると、3・11の東日本大震災の大津波がこのホテルにも3日後に襲ってきて、一階部分の全ては流されたり、濡損して未だに復旧工事が終わっていないのだと答えが帰ってきた。日本だけが大変だったのではないと改めて津波の恐ろしさを感じた。
もう一つ気が付いたことがある。ビッグアイランドの人たちはアロハやムームーをあまり纏っていないことだ。太陽とともに華やいだアロハやムームーがハワイらしい雰囲気を醸し出していたような記憶があるのだが。屋内が冷房で寒いからか、フロントの女性はカーデガンを纏っていた。
マウナ・ケア4205m山頂にある我が日本の天体観測所を見学する日だ。
地球はどのようにして生まれてきたのであろうか、ロマンチックな星たちの本当の姿は一体何だろう。
ハワイ島に到着してから3日目、充分に休息し体調は万全だ。嘗て、ペルーのクスコを訪れた時、3200mの町でひどい高山病に罹ったことがあったので、本音を云えばとても心配だった。
午前11時30分の予約に間に合うように四輪駆動車で出発した。高度調整の為に2800m地点にある鬼塚センターが第一目標である。車はホテルを出て19号線から190号線に折れて、ひた走りに走った。平均時速は45マイルやがてパーカー牧場を右折して200号線に入った。ここは2車線でヒロまで通じている通勤道路だそうだ。結構車の往来が激しい。起伏の激しい路に入った。サドルロードと呼ばれる区間だ。速度は25マイル、アップダウンを繰り返しながらいつの間にか高度は1700mになっていた。出発して1時間、左折して山頂に通じるアクセスロードに入った。車はスルスルと緩いカーブを上って18分鬼塚センターが見えてきた。ここで30~40分の高度調節をする予定になっている。
出発前、今度ハワイの国立天文観測所にある世界一の望遠鏡"すばる"を見学に行くのだと友人たちに伝えると異口同音に「望遠鏡で覗けるの? 良いなあ、ロマンチックで」と返事が返ってきた。これは世界最大の口径を持つ光学赤外線望遠鏡で、すべて集光したものをコンピュータに取り込んで解像するのだから、覗き見口から天体を見る事は出来ないようになっている。
だいたい、すばるのある棟と観測室のある棟は離れているのだから、ちょっとの説明では、幾ら光をコンピュータに送って解像すると言っても天文おたくでない限り分かりにくい。
しかも、この光学赤外線望遠鏡と日本の長野県にある長野原電波望遠鏡やチリのALMA電波望遠鏡の基地と連動してそれぞれが相互にどこからでも観測できるというのだから驚きだ。
名前は定かではないが、確かスチュワートさんだったか。ビジターセンターの様々な雑用をこなしながら、天体望遠鏡を広場に設置して太陽の黒点やフレームを説明しながら見せてくれている。初めて見た太陽の黒点は赤い中に小さなそばかすのように点在しているのが分かった。しかし、フレームはなかなか見えない。スチュワートさんが脇から「8時から9時の方角をよくみてごらん」と教えてくれる。やっと見えた黄赤色の円の外側に一瞬紅炎が揺らぐように姿を現した。「やっと見えました」チュワートさんは良かったねというように微笑んだ。
数日前、ノーベル物理学賞の発表があった。カリフォルニア大バークレイ校のパールマッター教授が他2名と共同して「宇宙の膨張が加速している」事を発見したというのだ。すばるの説明者からも聞いたが、確か、この教授たちはすばるも利用して観測を続け、膨張を加速している真空物質「暗黒エネルギー」の存在があるのではないかという確信を持って、指摘したと説明されていた。未だ研究中だということだが、世界中の天文学者たちは、雨や湿気の少ない、人口の明かりや電波に左右されない世界の高地に、電波や光学赤外線の天体観測基地を共同で設け、宇宙に人工衛星を飛ばして電波や光波では観測できない謎の物質をX線で観測するなど、三位一体で未知の宇宙に挑んでいる。
地球の誕生と終焉、そして未来の新しい地球と同じ星の発見がもう間近かも知れない。疲れ果てた地球の末路は大爆発で炎上するのか? それとも氷の棺で覆われるのだろうか? もう明らかになっているのかも知れない。
初秋とはいえ、汗ばむような陽気のなか、バスを"おひさま"のロケ地となっている"大王わさび農園"に向けて走らせた。昼食の手配はせずに、大雨で寸断されていた中央道の渋滞具合を見て、途中のサービスエリアで食べて頂くことにした。
1時頃、諏訪湖サービスエリアに到着した。ここのおそばが美味しいとあったので四人掛けのテーブル四つ、レストランの係の方と相談して急いで場所取りをした。皆様に思い思いのメニューを選んで頂き、遅目の昼食を食べて頂いた。諏訪湖の湖面に太陽の光が踊っていた。景色も味も満足して頂けたようであった。
3時頃、目的地"大王わさび農園"に着いた。やはり朝のNHK連続ドラマ"おひさま"のせいで多くの人でごった返していた。
車を下りて、ドラマに使われた水車小屋やお蕎麦屋さんの火事の後、若夫婦が中心になって店を出すことになった、とんがり帽子の屋根をした廃屋を見に出掛けた。入り口から少し歩いた所に道祖神が並んでいた。
蓼川の清流の畔に水車小屋が2つ、さらさら水音を立てながら回っていた。頭を清流に垂らし所々並木のように連なっている柳と、水車は一幅の絵になっていた。水車をバックに皆の記念撮影をした。流れの早い小川に二隻のゴムボートが浮かんでいたが、突然騒がしくなって一本の木をガイド役の船頭さんが指して何か叫んだ。見ると、水車の手前に立っていた柳の幹に青大将がくねくねと登って行くのが見えた。
わさび田は未だ黒い寒冷紗で覆われていた。だいたい白い花が咲き終わる4月頃から9月一杯まで覆い、1日12万トンの流れる湧水とで平均温度12℃を保つようにしているという。わさびは年中収穫されるが、収穫時期は苗を植えてから12ケ月経ってからだという。どうりで収穫後の畝に苗が植えられていたし、大きなわさびが育っている畝もあった。ここで採れるわさびの量は年間150トンもあるので、おいしさと併せて有名なのである。私たちは名物"わさびソフトクリーム"を味わってみた。
今晩の宿は穂高ビューホテルだ。常念岳の麓にあるホテルは、から松や銀杏の木立に囲まれた静かなリゾートホテルである。入口を入ると、一段下がったところに吹き抜けのロビーがあって、大きな窓の向こうに夕日を浴びた緑の芝生とから松の林が見えていた。このホテルにはかけ流しの天然温泉がある。アルカリ性単純温泉の湯は美人湯としても知られているし、肩、膝、腰痛などにも良い。
ロビーには結構沢山の人がいたのに、温泉に行ってみると僅か3人しか入っていなかった。どうやら温泉に入る風習が違う中国や韓国の人たちだったようだ。広々とした、程よい温度の湯にのんびりと浸かって疲れを癒した。
ベッドはセミダブル。都会のホテルとは違ってゆとりのある部屋だった。窓には森の自然が拡がっていた。何よりも良かったのは、寝ていても暑くなく、他のホテルや旅館にありがちな暑くて寝苦しいというような空調ではない。
掛け布団は睡眠にすっかりなじんでいた。
翌日はできるだけゆっくりした時間を味わって頂きたいと思い、出発は10時頃だ。外に出ると銀杏の葉が黄色く色付き、朝の陽光を浴びて美しく秋を知らせている。から松林の林間を歩くとホテルが世話をしているという岩魚の池にぶつかった。ゆっくりとした朝の一時を思い思いに過ごすことが出来たようだ。
10時ころ快晴に恵まれた中、白い花が一面に咲いているそば畑を、車窓から見ながら岩崎ちひろ美術館に向かった。
ヴィクトリア湖とアフリカを南北に走る大地溝帯の間にある見渡す限りの大草原(サバンナ)だ。タンザニアと国境をマラ川などで分けているセレンゲテイの北側の部分だ。マサイ族とマラ川からとった名前のこの地には草食動物やそれを餌とする肉食動物がみごとな生態系をつくっている。ヌーのマラ川を渡河する春秋の大移動の圧巻は私たちの好奇心に火をつける。
セレナロッジの眼下に広がる1800平方キロの大サバンナ。ヌーや縞馬、麒麟などがのんびり草を食べている。サファリカーを走らせれば子供に餌の取り方を教えているチータ親子、ライオンの群、岩のように水に浸かっている河馬に出くわし目を見張る。
数百万年前にンゴロンゴロなどの火山が現在の外輪山の部分を残して吹き飛んだ跡のカルデラが阿蘇山に次ぐ世界第二のクレーターになった。その西側には人類発祥の渓谷オルドバイがあるとても神秘な感じがする。外輪山が2400mと高いのでカルデラ内の多くの動物は外に出る事が出来ず、周囲から隔離された生態系を形成している。
急な坂道を上って行きメインゲートを過ぎて樹林の中を走って暫くすると、木々の間から大クレーターの真ん中に湖が白く光って見えていた。望遠鏡で覗くとフラミンゴや河馬の湖が見える。縞馬もヌー、バッファローの群がのんびり草を食べていた。
朝4時半、幸い雨は降っていない。車に乗って闇の中を遺跡の料金所に向かった。遺跡に入るには入場パスを購入しなければならない。夜空には新月を過ぎたばかりの爪先のような月と大きな明けの明星(金星)が並んで輝いていた。
「2時頃、夜空の星が奇麗だったわ」「そう、私は3時頃窓から見た星空が奇麗で、アフリカを思い出していたの」「あっ!稲妻だ」誰かが叫んだ。金星の右端に閃光が2度3度走った。「雨が来るのかしら」不安そうな声が聞こえる。バスから降りて入場パスの発売をたむろしながら待ち、口々にお喋りをしていた。「稲妻が走っているけれど雨は大丈夫?」一人がガイドに聞いた。「今日は、雨は降りません。向こうの稲妻の下あたりに降っているのでしょう。こちらには来ません」と皆の心配をよそに自信ありげな顔で答えていた。
やがて係員が現れ、入国管理のデスクの上にあった小型カメラと同じものに、顔を向けるよう促された。写真入りのマルチパスを作って貰う。何でも不正利用されない為に顔写真を刷り込んで作るのだそうだ。
アンコ-ルワットの四方を取り巻いている環濠に架かっている橋を渡る。ガイドが盛んに撮影ポイントに案内し、説明する「王様の門からワットを見てください3本の祠堂しか見えないでしょう?昔は王様しか通らなかった正面の西門から中に入ります。私の案内する場所からは、五本の祠堂が見える絶好の場所です」指さす方向に森のような黒い塊があった。懐中電灯で足元を照らしながらデコボコ道を進み内部に入った。
西門に近づいて目線を上げると、消えていたアンコ-ルワットの巨大なシルエットが眼前に聳えていて、思わず息を飲み込んだ。幾分明るくなったのだろうか。
19世紀のフランスの探検家アンリ・ムオ-がアンコ-ル(城都)遺跡に来て書き記した「この寺(アンコ-ルワット)を見ていると魂はつぶれ、想像力は絶する。ただ眺め、賛嘆し、頭の下がるを覚えるのみで、言葉さえ口にでない。この空前絶後の建築物を前にしては、在来の言葉ではどうにも賞めようがない」と云う一節がある。
私は西門付近に転がっていた石に腰を下ろした。この巨大なアンコ-ル遺跡のシルエットを目の前にして、ムオ-と同じ思いに耽った。熱帯ジャングルの奥に、ひっそりと朽ちかけた姿を留めていた、アンコ-ル遺跡と初めて出会って大いに驚嘆したルオ-の心境はいかばかりだったろうか。
城都内を往来する、ミルクのように白い乳房も露わに、裸足で歩く女官(デバ-タ)や王妃たち、大行列を組んで贅を尽くし煌びやかな象に乗って王宮から現れ、ワットに入る王の姿などをタイムスリップして現実に見ているように、夢幻の世界を彷徨っていた。
これは、元朝の使節、周達観がアンコ-ルに一年滞在(13世紀)して記した「真臘風土記」の触りに書いてあった文言を引用してみた。
次第に白みがかった空、シルエットから徐々に壮大な現実の姿が現われてきた。第一回廊の基壇の両端と中央祠堂の先端を目線で結ぶと、奇麗な二等辺三角形になっている。
私は只々その精緻な設計に圧倒されるばかりだった。中央祠堂の後ろに懸っていた雲はみるみる大きさを増し、西に広がってきた。「ああ、今日も太陽は駄目か!」昨日に引き続いて来ただろう旅人の声がした。
12月から2月にかけてなら、当たり外れの少ない一番良い季節だと知ってはいたのだが、これを見たい一心で訪れたのに、やはり時季が悪く、雨こそ降らなかったが、天は味方してくれなかった。
黎明を浴びて蓮池に、それでも影を落とす五本の祠堂をカメラに収めた。
「ワットの背後から昇る朝陽を浴びて、金色に輝く中央祠堂の姿は神々しく、アンコ-ルの朝日・夕陽を見ずして結構と言うな、と言われるほど、訪れる人々の心に一生残るのです」ガイドの話が虚しく心に響いた。
きっと700年昔、煌く陽光を浴びて金色に輝いた中央祠堂が、この蓮池にその姿を後光と共に映し出し、城内に暮らしていた6万余の人々は、現人神に似た王に対する恐れと神々しさを感じ、戦慄を覚えていたに違いない。「天の岩戸と天照大神」の物語を思い浮かべた。
私たちは未だ遺跡群のほんの序の口しか見ていない。この後訪れる、崩れかけあるいは、修復途上の幾つかの寺院や城都遺跡に、クメ-ル王の絶大な権力と富力の偉大さを知るだろう。また、その王のもとで、粉骨砕身、次第に形になって出来上がってゆくワットに満足感と幸福感を味わいながら、建造し続けた人々の叡智と忍耐力の結晶に感嘆し続けるだろう。胸を躍らせた。
アンコ-ルワットで驚いたのは規模の壮大さと、見る角度で4本の煙突が一本に見えるという、視覚と錯覚を意識した建築技法が活用されていることだ。五本の祠堂が見え隠れし、時には3本に、ある時は4本になるというようなものだけではない。
クメ-ル文化の円熟期に、匠達によって描かれた薄肉彫絵巻物の多さと精緻さと、素晴らしさに見惚れてしまう。
第一回廊の西面南側から始まっている、王族相互の血みどろの戦いによってでき上がった建国物語「マハーバーラタ」と「ラーマーヤナ」は、ロマンに満ちあふれていた。また、回廊外側の壁面にはおびただしいデバタ-(女官・女神)たちが様々な顔立ちと踊りの姿態で彫られてあった。皆一様に微笑みを浮かべ、中には歯を見せているデバタ-も見られた。
天国と地獄の絵図はどこの国の宗教物語も一緒である。ガイドが「ス-ルヤバルマン2世は政敵や戦いの相手に酷い死を与えたので、ヴィシュヌ神と合体して誰よりも天国に行くことを願っていたから、殊更、描かせたのではないか」と話していた。
バイヨンのレリ-フには、宮廷内部の女官や饗宴するデバタ-たち、権威に満ちた王様の姿などと当時の食生活や風俗、ジャヤバルマン7世の出陣と戦いに臨む象軍団、傭兵や正規兵の姿などが克明に、精緻に浮き彫りとして残されていた。その中には、影のようなものが付いていて、二重にも三重にも見える。それらが大勢の人々を表し、同時に動画の役目も果たしているという説明を聞いて驚いた。「動画のイメ-ジがこのころ既にあったのだろうか?」
しかし、これらのレリ-フや彫像は一体誰に見せようとしたのだろうか? 下々の民や朝貢の外来人が王宮を訪れた時に、王の偉大さを知らせようと試みたのだろうか? 毎日廊下を往来する王の為に、王は偉大なりという「王の思い」を描いたものだろうか?
単に装飾として描かれたにしては、物語が長すぎる。「乳海攪拌の物語」は、神は永遠だということを伝え、その神自身が王だと言っている。キリスト教会に入ると、ステンドグラス一杯にキリストの誕生から始まって、聖書の中身が描かれ、聖者の施した奇跡が表わされているのと似ている。人間の頭で考える権威や恐れを伝達する表現方法は、古今東西共通で、無知の人や無信仰の人々に絵解きをしながら、権力者や聖者の意志を、恐れと共に伝えようとしているのではないだろうか。
壁面を指さしながらガイドが物語を話しているが、周囲の雑音のせいで、明確には聞き取れない。「乳海攪拌はヒンドゥ教の天地創生神話で、神々と悪神ヴィュシヌが大蛇ヴァ-スチ(ナーガ)の胴体を綱にして綱引きをしながら乳海を攪拌し、不老不死の妙薬を得ようとした。結局妙薬は神々の手に渡り永遠の命が授かり、神々は永遠のものとなった・・・」と。
王宮が放棄されて700年、熱帯雨林の繁茂による自然の猛威で破壊され、さらに近隣諸国からの侵略によって破壊や略奪が繰り返された。僅かに残ったこれらの文明は、19世紀から始まった西欧人たちの激しい略奪競争でめぼしい多くのものが持ち去られたと伝えられている。それらはパリ博覧会で展示され、極東ブームを引き起こし、今でもギメィ博物館に収蔵、展示されているそうだ。それにしても、たくさんのレリ-フが文化遺産となって、未だ眼前にあるのには驚くばかりだった。
アンコ-ル・トムの中央にあるバイヨン寺院の、第二層の中央テラスには、囲む様に16基の尖塔がある。今まで見てきたワットとは異なって大乗仏教の時代だったそうだが、それぞれの尖塔に四面菩薩が彫られてあった。
しかし、多くは剝取られ、あるいは、風化によって朽ちはてていて、昔の姿を留めているものは少ない。それでも50くらいの菩薩が残っていて、ひとつひとつのお顔の表情が穏やかで、口もとの笑みがそれぞれ異なって見える。
何故一つ一つの微笑みの表情が違うのだろうか? よく見るとお顔立ちは、多民族を表象しているかのように、それぞれ若干違うように見える。
当時、四面菩薩は輝いた神々しいお姿で、東西南北四方の下界を慈愛の目で見つめ、様々の民族の人たちに慈悲を施しておられたのに違いない。
中央神殿を囲むように聳えている仏塔の幾つかの中で、三つの尖塔に彫られた菩薩のお顔が重なって三重に見えるポイントがあった。転がっている石に座って、じっとそれぞれの菩薩の口もとを見つめている旅人がいた。永遠の時の中に身を置いて、瞑想しているかのように見えた。心の会話を古と交わしているのであろうか、それとも詩情に耽っているのであろうか。
写真を撮るには絶好のポイントで、付近にはヒンドゥ神の姿をした村人たちが、「記念写真を!」と呼んでいた。
アンコ-ル遺跡の素晴らしさを、何をどう話したり、書いたりすれば良いか筆舌することは、全く難しい。
ラオス、ベトナム、タイ、マレ-シアなどを版図とした大国であった当時のアンコ-ル王国が、熱帯雨林の平原の中に現代にも通じる、綿密に計算された土木工学技術と緻密な芸術表現で壮大な城郭都市や寺院を建設して現在に至っていることで先ず驚かされた。
だいたい、①誰が現代の製図や完工図のデッサンを描いたのであろうか。②誰が設計思想の伝達や教育のタクトを振っていたのだろうか。③それらを見ただけで、それぞれの持ち場で、寸分違わない仕事が出来たのであろうか。④建築資材の選定や行程図を誰が描いたのであろうか。⑤これだけ大量の切り整えられた石を、何処からどうやって運んで来たのだろうか。⑥どれだけの人数で、どれだけの日数をかけて、幾らの建設費で造営に励んだのか。⑦石像は何処で彫り、どうやって運んで来たのだろうか。
想像もできないことばかりで、その素晴らしさに感動し、驚ろかされてしまった。
ジャングルの緑と 碧空に浮かぶ白い雲は 地上に敷き詰められた 緑の絨毯とともに 遠い昔にわたしたちを誘う 密林の中に 幾百年も経て佇んでいる アンコールワットの群れは 真っ青な空に 黒々と浮かんでいる |
五本の尖塔で アンコール・ワットは ヒンドゥの教えに従って 天との融合を目指し どこまでも高く天を突き指す アンコール・トムの 中核にあるバイヨン寺院は 大乗仏教の四面仏で囲まれ 穏やかな微笑で 地界に慈悲の光を放つ |
目を閉じれば かすかな風のそよぎを感じ 灼熱の太陽で むせ返る大地の匂いを感じる アンコールの 遺跡群は悠久の姿を残す 陽炎は目の中に ゆらぎたち 400年もの、昔の槌音が 人々のせわしない息遣いとともに かすかに聞こえる |
アンコール・ワットの北東40Kmにあるバンテイアイ・スレイ寺院は「女の砦」という意味なのだそうだ。西暦967年にシュバ派の寺院として建立された。
私たちはその中央神殿に刻まれているデバタ-「東洋のモナリザ」が世界屈指の美術品だと聞いて訪れたのだ。
フランスの作家アンドレ・マルローが剥ぎ取って母国に持ち帰ろうとしたと云う謂れがある。マルローがここに相棒の美術家と来たときには、がれきの山で、金になる美術品が無いか探索している最中に、一面シダの木の蔓に覆われた壁面に微笑みを浮かべた、女神の浮き彫りを見つけた・・、と著書「王道」の中に書いてあった。今は復元された祠堂の柱に数対の女神像がある。「正面右手の柱にある女神が東洋のモナリザです」ガイドが指さした。今では観光客が近寄れないように四囲に縄が張り巡らされている。遠くからなので表情が良く読み取れないのでカメラの望遠で写した。モニターで拡大して見ると、成程、美しく神々しい表情が浮かんでいた。
私たちは5連泊して、トゥックトゥックに乗って市内観光をしたり、気球に乗って上空から森に囲まれたアンコール・ワットの全景を楽しんだ。アーティザン・ダンコール伝統工芸品の技術学校を訪れた時、前王シャヌーク殿下の御妃モニク王妃が丁度来ておられているのにぶつかった。職員や学生たちが沿道に並んで敬虔な面持ちで手を合わせていた。そういえば、ポルポト政権が倒れた今は立憲君制主国なのをすっかり忘れていた。
ケニア、タンザニアなど国名は知っていてもその在処を知っている人は少ない。ましてや赤道が、アフリカのどの辺りを通過しているかとなるともっと分からなくなる。
野生の天国であるマサイマラやセレンゲティ、ンゴロンゴロ、ペリカンやフラミンゴの多いマニャラ湖などとなるとその在処はほとんど分からないだろう。南部アフリカのクル-ガ-やボツワナのチョベ、オカバンゴなどでのサファリを過去3年にわたって経験してきたが、野生の天国と聞いて、マサイマラやンゴロンゴロをどうしても訪れてみたくなった。
地図を広げて見ると赤道はケニアの首都ナイロビの北、200kmほどのところで地球を二分している。今度の旅は南緯1°20分から40分のあたりを旅することになるのである。赤道直下に近い国は一体どんな天候や季節であろうか、インタ-ネットを通じて情報はたくさんあっても、今年は世界的に天候不順なので訪れてみないと実際には分からないだろうと不安が募った。
実際には、ドバイ迄約10時間、乗り換えてナイロビへ5時間、更にナイロビからサファリリンク社の14人乗りセスナで1時間、荒涼としたサバンナの一角にあるセレナストリープ(滑走路)に降り立つ。(乗換えの為の待ち時間は除いている)滑走路脇に出迎えていたサファリカ-でマラセレナロッジへ15分ばかりで到着した。
中央棟を中心にして、2戸建て、焦げ茶色のコテ-ジがキノコのような姿で左右に重なるようにして並んでいた。
ロッジは小山の上に立っているので、眼下に広がっているサバンナはどこまでも広く雄大で、そのサバンナを切り裂くようにしてマラ川が蛇行して流れている。川の畔には、オアシスのように生い茂っている緑濃い木々の光景が、清々しく感じられた。
何人かの欧米人がプ-ルの傍らでのんびりと日光浴をしていた。聞けば1週間の長期滞在だという。子供達は喜々とした声を張り上げながらプ-ルで泳いだり、赤茶色と緑色した綺麗な40cmくらいの大トカゲを追って遊んでいた。
部屋には大きなバスル-ムと広々としたリビングがあり、どの部屋にもサバンナに向かって大きな窓が広がっていた。豪華な佇まいでいっぺんに気に入った。
眼前に広がるサバンナには太陽の暖かい光を浴びながら、ヌ-やインパラ、バッファロ-の大群がのんびりと早春の草を食べている光景は印象派の淡い絵のようだった。目を丘の裾に転じると1頭のキリンがまるで銅像のようにポ-ズを変えずに立っていた。いつ見ても同じところに何時間でも立っていて不思議だった。そんな光景に浸っていると自分自身がその自然の中にいつの間にか溶け込んでいて、今着いたばかりだと云うのにまるで昔からここに座っているような錯覚に陥っていた。
夕刻、ゲ-ムドライブに出発した。なだらかな坂道を下ってゆくとマラ川を挟んで当たり前のようにヌ-(ワイルドビ-スト)やバッファロ-が群れをなしている。ロッジから見えたキリンはいつの間にか姿を消していた。
突然ドライバ-のジョセフが前方4時の方向を指さした。「チ-タだ!」見ると30mほど先の黄金色した草むらに、3匹のチ-タが獲物を引き倒してからかってでもいるように見えた。「乾期になると、出産を終えた母親が大概4匹の子供達を連れて、ハンティングを教えている光景に出くわすことが多いんだ。成獣のチ-タは1m足らずの大きさで、足が長く、走るのに瞬発力があって時速115kmくらいでそのスピ-ドを300mも持続出来るんだ。彼らは一日だいたい3kgくらいの肉を食べる習性なんだよ」静かな口調で教えてくれた。枯れ草の黄色い色とチ-タの体毛が混然としていて、目を凝らさないととても見分けがつかない。
よく見るとチ-タの子供が、ガゼルらしい獲物の横に添い寝でもするような仕草を見せている。突然その獲物が立ち上がって数歩逃げるようにして走った。「ガゼルだ!可哀想」車の女性達が叫んだ。母親チ-タが追いかけて再び草むらに倒した。その時、遠くからハイエナが小走りに近寄ってくるのが見えた、1頭、2頭、3頭・・。
「ハイエナって奴は夜行性なんだけれど、このように昼間現れることもあるんだよ。あいつらは鼻がよく利くし、遠くから血の臭いを嗅ぎつけてやって来るんだ。しかも1頭じゃあないんだよ。あっちからもこっちからも来ているだろう」チ-タと獲物を取り囲むように数匹のハイエナが四方から急ぎ足で近づいてきた。
チ-タは顔を上げ、腰を落として身構えている。ハイエナがチ-タに向かって疾走してきた。チ-タが歯をむき出して立ち向かおうとしていたが、2頭にからまれると1~2回の咬合の仕草であえなく後退してしまった。子供達は母親より先に一目散に逃げ去っていた。ハイエナは獲物を横取りして食べ始め、食べ残しをくわえてゆうゆうと草原に消えて行った。ほんの僅かな時間であった。
「チ-タは一口も食べていなかったみたいよ、可哀想!」スマートなチータに同情して女性達は口々に嘆いていた。もしかしたらイケメンが、ならず者に絡まれている姿を頭に描いていたのかも知れない。最初からこの様子を空から見ていたハゲワシは、ハイエナたちが食べ散らかした残飯でもあるのだろうか、舞い降りてきた4~5羽が群がって地面を突ついていた。
チ-タは豹に似ているが他の大きな肉食獣と戦うことはほとんど無く、草むらや樹上などに素早く逃げてしまうのだそうだ。
「ヌ-の河渡りが見たい!」8月後半、いろいろな情報では大丈夫、見ることができる時期だと聞いたのでマサイマラを選んで訪れた。
到着翌日にはバル-ンに乗って、上空からマサイマラの全貌を見ることにした。広いサバンナに米粒ほどに見えた黒い点は、近づくにつれて総てヌ-、ヌ-で数えることもできないほどだった。「一体どれくらいいるのだろう」誰かが聞いた。バル-ンを操縦していたジェイピ-が「マサイマラには150万頭も集まって来るんだよ、今見えているのは4~5万頭くらいかな」と教えていた。
一つの動物保護区が国境で二分され、タンザニアのセレンゲティとケニアのマサイマラに別れている。いわゆる「ヌ-の川渡り」は、その国境に流れているマラ川やサンドリバ-を、雨期明けに生え出る、好物の若草の芽を追って乾期となった方から、移動する光景のことを指している。川渡りの際、川に潜むワニや草むらで待っているライオンやカリオンなどに襲われるが、若干の仲間の死を悼むこともなく、目を剥き血走らせて、必死に走る群れの姿が見物に来る人たちを引きつけているのだ。
夕刻、車を走らせてマラ川の畔に行くと、そこには7~8台のサファリカ-が既に集まっていて「川渡り」の幕開けを今か今かと固唾をのんで待っていた。
ジョセフが「今日は絶対見られるよ!ほらヌ-たちの群れがかたまってきただろう、今に走り出すよ」あのストレンジオジサンと同じことを言った。やがてヌ-たちが百頭くらいに固まったと思ったら一角が崩れ、先頭のヌ-が河岸を目指して猛烈な勢いで走り出した。「いよいよだ!」皆が身構えた。
ヌ-の先頭が河岸に到着したと思ったら急ブレ-キで立ち止まった。盛んに首を上げ下げして川面までの高さを計っているように見えた。「そのままの勢いで飛び込めばいいのに!」「あそこの近くにいるワニでも眺めているのかしら」誰かが川面を指さしながら口々に呟いた。先頭のヌ-は同じ動作を繰り返していたが、急に踵をかえして走り出した。群れはそれに続いた。「ちぇっ!気だけ持たせて・・・」皆が溜息をついた。
ヌ-には確かなリ-ダ-はいないと聞いていたような気がしたが、実際はリ-ダ-が群れを見事にコントロ-ルしている。
「マサイマラやンゴロンゴロに行けばライオンなんてごろごろしている」と聞いていた。実際車を走らせていると、いるいる。あちらでも車の走る道端近くでも悠然と寝ころんでいる。「ライオンはお腹が一杯だったら静かに寝ているよ、時々目を覚まして四方を眺め回してもまた横になるよ。車が脇にいても一向に気にしていないね。毎日たくさんのサファリカ-が来るから、自分たちの仲間くらいにしか思っていないのさ」ジョセフが車を止めて話しかけた。
クル-ガ-ではライオンの姿を見つけたら、口に手をやってレンジャ-が静かに動いては駄目と合図したし、チョベでは5m以上の間隔を開けて車を必ず止めていた。
百獣の王だけあって恐れる物がなにも無いからだろうか。不思議、出合うのはだいたい2頭のライオンで雌ばかりが多く目についた。
1昨年チョベでは、12頭ぐらいのプライド(群れ)を見たのだが、ここでは群れに出合わなかった。「プライドはいないの?」と聞いてみると「6頭くらいのプライドを何回もみたよ」とジョセフは返事した。
セレンゲティやンゴロンゴロへの、中継地アリュ-シャからの道は、アスファルトの平坦な道だ。車は速度80kmを遵守していて安全運転だった。
町外れのコーヒー畑を抜けると、タンザニア国防軍の一際、真新しい住宅群が見えて来た。国防に専念させる為に、庶民より良い住宅環境や、兵舎環境を与えているそうだ。
マクユニ村からンゴロンゴロの外輪山(リフトバレ-)までは、緩やかな上り下りのある快適な道路だ。日本の鴻池が造った道だそうで、しっかりした良い道が続いていた。リフトバレ-の北にロルマラシン山(3290m)が壁のようにそそり立っていた。その辺りから道はジグザグになり上って行く。沿道にはところどころにマサイの村があり、道端にマサイア-トを飾って、旅人を呼んでいた。左側の下方には、マニャラ湖の大きな姿が見え隠れしていた。
ソパロッジは、クレーターロッジの反対側に当たるリムの上にあった。クレ-タ-に下りて行くゲ-トには、門限があって19時までにはホテルに入らねばならないと書いてあったと記憶している。だとすると、ナイトサファリなどはできないのだ。
ソパロッジはやはりキノコ型の屋根を持った2階建ての棟が建ち並んでいた。
バ-から望む景色や、部屋のテラスからクレ-タ-を望む景色は雄大で素晴らしかった。部屋は不思議で、入り口に大きなスペ-スがあってがらんとした感じだ。そこにクロゼットが置かれてある部屋、何もなく玄関役しかしていない部屋などばらばらだった。コ-トや洋服は一体どこに掛けるのだろう。洗面所は広く、仕切のある大きなシャワールームが付いていて、換気も行き届いていた。
ベッドル-ムはツインでダブル幅のベッドが置かれてあり、ゆったりとしていた。ベッドの足下には、小間物を置ける、三日月型の台が、ベッドと同じ高さで置かれてあった。
今年の8月は殊の外、夜寒かったが、夜になると毛布の下に、湯たんぽを入れて保温してくれていたことは優しさと温もりを感じて、嬉しいことであった。
タンザニア政府観光局のパンフレットを見ると、国立公園は、キリマンジャロ、タランギレ、セレンゲティとマハレ山脈の四つしか載っていない。
ンゴロンゴロは自然保護区で国立公園とは区別されているのだ。「もともとセレンゲティと一緒だったものが、ドイツの植民地時代、ンゴロンゴロに砦を造り、狩りをして動物たちを、食料や漢方薬の原料として輸出に励んだので、動物たちの多くが絶滅の危機に瀕したんだ。大戦後、イギリスの信託統治となり、動物の保護と、人間との共生を計って、イギリス人が1959年、セレンゲティと分離して自然保護区にしたんだよ」とドイツ人の住居跡の石垣を指しながらミンディが話してくれた。更に説明は続いた。「この大クレ-タ-は200万年前に火山の大爆発で山が吹き飛び、外輪山だけが残り、深さ600m、広さ800平方キロ、幅20kmのカルデラとして残ったんだよ。それで、1981年ンゴロンゴロを、世界自然遺産に登録出来たと云う訳さ」実際展望台から見た景色は、広大で幾つかの湖が点在し、ヌ-や縞馬の大群が一面に広がっていた。
サファリカ-が3台集まっているところがあった。「ミンディ!あそこに行って見ようよ、きっと何かいるよ」「僕もそう思っているところだ」ミンディがスピ-ドをあげて近づくと、雌ライオンが1頭道端を中腰で歩いていた。今度のドライバ-はミンディとサミュエルだ。
廻りには縞馬の群れとヌ-の群れが草を食べていた。のどかな風景である。ライオンは道にはみ出そうになりながら草を食べている1頭の縞馬を狙っているらしい。「ミンディ、ライオンはあの縞馬を狙っているの?」「さあ!これから待ちに待っていたライオンのハンテンィグが見られるよ!」やや興奮しながらミンディは言葉を続けた「ライオンはお腹が一杯だと3日も4日も獲物を捕らないんだよ。だからハンティングを短い滞在で見ることが出来るなんて、こんなラッキ-なことは無いんだぜ。僕だって久し振りだよ」ライオンは私たちの車の横を忍び足で前進して、5mほど縞馬に近寄った。そしてもう一台のサファリカ-を隠れ簑にして身を潜めている。3~4分経っただろうか動き出した。今度は匍匐するような姿勢でにじり歩きを始めた。頭を下げ、尾を立てて振った、と思ったら脱兎の如く縞馬に走り寄った。
縞馬は必死に逃げたがたちまち追いつかれて、尻の上に覆い被されてしまった。縞馬は腰を折り、はずみでライオンが振り落とされた様に見えた。縞馬は、それチャンスとばかり逃げにかかったが、再びライオンに掴まり、首筋に歯をたてられた。足をばたばたさせていたが、やがて静かになってしまった。
母親か兄弟らしい縞馬と他、数頭の縞馬で助けようとしているのか、6~7mに近づいては後退りし、近づいては退いていた。やがて悲しそうに、いななきながら遠巻きにしている多くの仲間の中に消えてしまった。
「もう1頭のライオンが来る!」誰かが小声で言った。なるほどもう1頭のライオンが倒した獲物の傍にいるライオンに小走りで近づいて来た。さっき尾を上げて振ったのが合図だったのだろうか? 後から来たライオンは近寄って行き、獲物を倒して先に食べているライオンを座って見つめていた。一呼吸おいて2頭のライオンが一緒に獲物を食べ始めた。その度に縞馬の後ろ足が空を切っていた。
仲間の縞馬たちと母親は、あきらめきれないような悲しい鳴き声をあげていた。反対側にいたヌ-と縞馬の大きな群れは、その鳴き声を聞いて一斉に走り去っていった。
「本当にラッキ-だよ皆さんは!」ミンディが興奮覚めやらぬ表情で言い続けていた。「可哀想!おかあさん縞馬がかわいそう...」女性達は涙ぐんでいた。
ンゴロンゴロの帰りに立ち寄ったマニャラ湖国立公園は、ンゴロンゴロの外輪山(リフトバレ-)の森で集めた雨が地にしみ込んで水脈を形成して幾つもの小さな清らかな湧き水が湧き出していた。その水が集まって枯れることのない清流となり湖に流れ込んでいる。
マニャラ湖国立公園はンゴロンゴロのクレーターよりも低地にあるので、この豊富な水で森が育ち湿地帯も広がっている。従って象たちは群れをなし、フラミンゴ、ペリカン、カバ、バブ-ン、ベルベットモンキ-などが多く生息している。「ここに住むライオンは、蒸し暑さを嫌って木の俣で涼を取り、皮膚を刺す虫をさけて地上より凌ぎやすく、獲物も見つけやすいという一挙両得で、木に登って生息するようになったんだよ」と我がドライバ-ミンディは、3つの理由を挙げた。木登りライオンはアフリカにライオンを訪ねる人たちには有名で、是非一度見てみたいものだ。
「ガイドブックには、生息する木登りライオンはもう少なくて見ることは出来ないと書いてあるけれど本当に今では見ることは出来ないの?」と聞くと「そんなことは無いよ!出合うことはあるさ、でもこんな短い観光では無理だよ。あの崖の上にあるロッジに3~4泊でもして、じっくりゲ-ムドライブを楽しまなくては、チャンスは無いよ」と言われてしまった。やっぱり何日もかけなければ、珍しい木登りライオンを見ることは駄目という事か。
アンテロ-プ(羚羊・カモシカ類)
インパラはどこでも群れを作っていた。いつもちょっと小高いところに見張りでもしているように立っているトピビ-スト。これと良く似ているけれど茶色で腹が薄白く角が鍵状に上を向いているハーテビースト。お尻が丸い白毛で覆われているウオーターバック、小鹿のような身体に綺麗な黒い横線の入ったスマ-トなトンプソンガゼル。このガゼルより一回り大きくスカイラインのような線が入っていない茶色のグランドガゼル。1頭だけ飛ぶように枯れ草の上を駆け抜けたデックデック等、車の走る道を挟んであちらこちらで見ることができた。
子象のかわいい仕草
マサイマラでは、象は2~3頭が遠方の塩湖の中に見えていたし、マラ川の畔の茂みに7~8頭の群れと突然遭遇したこともあった。アンボセリでは大群が沼で水浴びをしている姿を楽しめた。マニャラ湖畔の森の中で群れを見つけた時は皆興奮した。茂みから出てきた象たちは私たちの車の直ぐ後ろを通り抜け、砂場に出て、しきりに砂を鼻に含んで身体に振りかけ始めた。子象は痒いお尻を倒木にしきりに擦りつけていた仕草がとても可愛かった。
「茂みにはたくさん虫がいて、肌を刺されて痒いから茂みから出たら砂をまぶしたり、ああやって倒木に痒いところをこすりつけているのさ」とミンディが説明した。
キリン
キリンは所々に対でいた。マサイキリンで模様がアミメキリンに較べるとはっきりしない、ツタの葉模様だという。
マサイマラやアンボセリ、ンゴロンゴロでは群れも多く見ることができた。木の葉を食べているところや首を互いに擦り合っている情景などもかわいらしかった。子供のキリンも多くいた、出産が終わって、子育て期に入っているのだ。
色黒のキリンが1頭いた。「黒く色が変わって見えるのはもう年取ったキリンだよ、群れから離れて只1頭、死を待っているのだよ」ミンディが言った。
人間と一緒だ、年を取って皺が増えて身体の線が崩れてくると死と対決するようになる。「我々と一緒だね」誰かが呟いた。
ジャッカル
ジャッカルが1頭、私たちの車を出迎えるように、道にたたずんでいるのに出会った。ジャッカルって大きくどう猛かと思っていたが、1m弱くらいの足長で尾が体長の三分の一くらいのスマ-トな身体をしたかわいいものだった。背毛が黒く「背黒ジャッカル」というのだそうだ。「オ-カミやコヨ-テと同じ仲間で、全くどう猛ではなくて小動物や昆虫類を食べているのだ」とジョセフに教えられた。
いずれの処も電話やテレビも無く、自然の中でのんびりと過ごせた。寝床で布団にくるまりながら動物たちの鳴き声を聞き、風のそよぐ音を聞いていると窓から見える星たちにロマンチックな世界に運ばれて本当に心が癒された。
]]>少年時代夜空一面に見えた沢山の星に魅せられて、いつの間にか反射天体望遠鏡を手造りするようになっていた。恒星や惑星、流星群や星雲は日本でも場所によって見ることはできるが、今回は日本が誇る世界一の天体望遠鏡のすばる見学が出来るというので欣喜雀躍してツアーに参加した。4200mの山頂から見る夕日や星の観測も引き続いてできるというのだから尚、期待に胸が膨らんだ。
日程を見ると、すばる天文台見学と星空観測は新月にぶつかっている。心憎いばかりの配慮が伺えた。機上から見たマウナケア山頂は雲海の中に頭を出していた、マウナケア山頂の晴天率は99%だと出発前の説明会で聞いていたが、にわかに天候のことが気になり始めた。午前10時、しかし晴天のなか航空機はコナ国際飛行場に着陸した。どうやら心配した天候は大丈夫そうである。到着日と翌日は4200mに車で登頂する為の安息日となっている。もちろん大好きなお酒もダイビングもお預けだ。
ワイコロア地区にあるマリオットホテルにチェックインすると、海辺を抱くようにして建てられているホテルの部屋からは抜群の景色が望めた。リゾートに来たという実感で身も心も軽くなってきた。ヤシの木、赤や黄色のジンジャーの花、プルメリア、アンスリウムなどが南国を醸し出していた。夜になった。星空に手が届くようで嬉しくなった。矢も楯もいられずホテル前のビーチに繰り出し、白鳥座や琴座、鷲座の位置を確かめた。「よし、明日の晩は星の勉強会を開いて、あさってに備えて貰おう!」いつの間にか少年の心に戻っていた。
朝食は海に面したオープンエアーのテラスでとった。リラックスして心地良い潮風にあたりながらの朝食は格別で、王様気分になっていた。
「希望者は今晩、夕食後ビーチのリクライニングチエアーに集まって下さい。新月近い夜空の星は綺麗ですよ、一緒に観測しましょう」と同行の仲間たちに呼びかけた。夜、5人ほどが集まっていた。星たちは心なしか、昨晩より大きく見えた。空気が澄んでいるし、辺りには星明かりを遮る邪魔な光はほとんど無かった。昨晩確認した白鳥座や琴座、鷲座や天の川(銀河)を挟んでベガ(織姫)やアルタイル(牽牛)も見えていた。カシオペアのMの真ん中の線を延長して行くと2等星の北極星を見つけて北の方角を知ることが出来た。また西の低い位置に珍しい赤く輝く金星と東の空に明るい木星などを見ることができた。
今日も快晴だ。お弁当を買いこみながら、四輪駆動でマウナケアの山頂目指して走った。第一の目標地点2800mまでは1時間15分。上り下りのちょっとしたジェットコースターのような坂道を順調に駆け上がって行く。ふわっと身体が浮くような状態に、子供のように大騒ぎしながら、綺麗に舗装された道をぐんぐん走った。時々耳がツーンとするが、たいしたことはない。
2800m地点に近付くと鬼塚センターの建物が見えてきた。ここでお弁当を思い思いの場所で食べながら高度に身体を順応させるのだ。空気は少しひんやりするが半袖でも気持ちが良いくらいで、雲海が真下に見える良い眺めだ。
13時いよいよ最終行程、すばる天文台・4200mへの登坂が始まった。30分くらいだというが、結構急斜面を登って行く。途中平坦な道は舗装されているが、上り下りの道は未舗装でがたがたと走っていた。ガイドに聞いてみた。理由は簡単で、山道のスピード走行をさせない為だそうだ。事故は自己責任の国だとは言え、無茶な事故が起きないよう考えられているのには感心した。
悪路を登りきると舗装された道が待っていた。各国の天文台施設の間を走りながら、13時30分すばるの説明をして下さる方が、入口で手を振って私たちを迎えていた場所に安着した。そこで係の方から、山頂は地上に比べると60%しか空気が無いから、呼吸はゆっくりと深く、動作もゆっくりとして下さいと注意を受けた。
4200mは意外と体調に変化を与えていなかった。ほとんどの方が顔色も変えずに入口から屋内に入った。屋内は結構寒い、聞けば4℃だと云う。天蓋が開けられた時の外気温に設定してあるのだそうだ。想像以上に大きな望遠鏡が作動確認で動いていて、こちらに迫って来るような感覚に陥った。
「レンズの大きさは直径8.2m、世界一の天体望遠鏡です。光を集光しやすくする為に、レンズの表面にアルミを蒸着しています。銅の方が反射率は高いのですが、錆びるのでここでは、アルミを使用しています」私は思わず「蒸着というと、それはここの施設内で行っているのですか?」と聞いてしまった。「そうです、蒸着釜はこの測候所内に設置してあります」と説明が返って来た。蒸着はアルミを釜で蒸発させて素材の表面に付着処理する方法だ。この大きな望遠鏡の管理運営の為に周到で緻密な計画が当初から為されて運営されている。素晴らしい観測所だと感激した。他の皆さんは年間予算を聞いて「この様な仕事の成果から考えても、もっと予算が増やされなくてはおかしいですね」と仰っていた。
10m以上の高さがある外周階段を上って、すばるの周りを一周した。網目状の床なので足元を見ると恐怖に襲われてしまいそうだった。見学が終わってハワイ島に来た第一の目的が達成された喜びがふつふつとわいてきた。子供のころ書物を見ながら手造りで完成させた反射望遠鏡を思い浮かべながら、長足の進歩を遂げ続けている天体観測技術に、又昔のような天体あこがれ少年に戻り、満足感と幸福感で一杯になっていた。
鬼塚センターで夕食を済ませて、再登坂。4200mの地点でサンセットを見る為だ。富士山より圧倒的に高い地点での観測は初めてだ。期待に違わず、太陽が西に傾くと、空の色は刻々と変化し、東にかかっている雲に山影を映し出した。これから始まる壮大なドラマの序曲のように思えた。空が黒味を増すころ、赤味の残る空に赤みがかった金星が現れて来ました。その直後、太陽が沈んだ場所から上空にオレンジ色の帯状の光が現れました。紛れもない素晴らしい"黄道光"だ。大気圏外の塵が演出する一大ドラマだ。この光が美しく見えるハワイ島の空気は、如何に綺麗なことか! やがて空は漆黒の闇に変わった。
星の観測は鬼塚センター周辺で行われる。天体望遠鏡が置かれている場所に来ると、さっきまで四輪駆動の運転手だったミスター・ゴートンは星座案内人に早変わりしていた。ペンライトのレーザー光線を夜空に向けて星を結びながら星座の形を作り「ほら、頭を右にした"サソリ座"が見えるでしょう。これは南の方角です」などと話してくれている。商売とはいえ、なかなか知識豊富で驚きでした。
昨夜地上から見た銀河は何だったんだろう? 2800m地点で見る銀河はまさに"河"と云う表現があてはまる。沢山の星が帯状に星雲を型作り流れているように見える。
感動しながら何時まで見ていても見飽きない。また今度来よう! 今度はすこし違った月日に。アビオンクラブさん、また良い企画を作ってください。
北極圏にある人口約4500人の小さな町には、ユネスコ世界遺産に指定されたアイスフィヨルドがある。タイタニック号がぶつかったような巨大氷山が毎日創りだされており、自然の驚異の力に圧倒されるであろう。
グリーンランドでもっとも晴天率が高く、オーロラを見るならここしかない。また町の周辺には氷河時代からの生き残りであるジャコウウシやトナカイなど野生動物が数多く生息している。
もともとは、冷戦時代にアメリカが軍事空港を建設したことから町が成り立ち、現在はグリーンランドの空の玄関口としても重要な町だ。
イヌイットは雪と氷の世界に順応し、何千年もの間、過酷な環境の中で生き抜いてきた民族である。アザラシやクジラといった海洋動物などを主食とし、お互いに助け合いながら生活している。彼らの土地を訪ねてみると、まるで違う惑星に来たような錯覚を覚えるに違いない。
アビオン花シリーズ 梅
久々にお天気に恵まれ、旅心を一層そそられるように感じました。そのためか、道がいつもより混んでいましたが、幸い大きな遅れはなく無事梅林につきました。梅林は大勢の観光客でにぎわっていました。開花状況が様々で、満開を迎えている木があれば、既に散り始めたり、まだ蕾であったりの木も時々見かけました。全体的には7割の開花でしょう。
お花見の最盛時期を予想するのは難しいですね。
お昼は、割烹旅館「二葉」の八代目館主・八木忠七氏が明治の偉傑・山岡鉄舟居士から示唆を受けて創始した「忠七めし」でした。日本五大名飯の一つでもあって、なかなか良いお味と好評でした。食後には、参加された方々がお互いかお近づきになって、より楽しい旅ができるようにという主旨で、自己紹介をして頂きました。その結果、今回は参加者間で、実はご近所の方であったり、ご友人のお知り合いであったり等の事が判明して、和気藹々楽しいお食事になりました。
午後は、埼玉伝統工芸会館で地元の手工芸品の展示、演出などを見学し、6名様は<和紙すき>の体験もされました。
お帰りには、バスの中で、カラオケの歌合戦をされました。梅の花見がメインのイベントでしたが、バス内でのカラオケを楽しむために参加される方もいらっしゃいました。
各国料理シリーズ
朝から風がほとんど感じない、4月上旬並の暖かさで過ごしやすい1日でした。
ポルトガル料理ってどんな料理かなと期待半分、不安半分を持たれた方が多かったです。一品一品の料理を味わって頂いている内に皆様の心が次第にお料理に惹かれていかれたご様子で、ポルトガル料理がこんなにおいしいとは思っていなかったとの評価でした。味付け、調理法、素材、日本の食文化とかなり似ており、器の使用、料理の盛りつけ方も口より目を先に楽しむ和食の様な拘りを感じました。カステラをはじめ、ポルトガルの食文化は昔から日本に伝わってきて、長崎、九州あたりはもちろん、日本の全国に広がり何時しか日本の食文化の中にすっかり溶け込んでしまったのだと感じました。
食後のファド鑑賞もとてもよかったです。ギターリストのマリオ・パシェーコ氏は愛想がよく、親切な方で、歌手アルシンド・デ・カルヴァーリョ氏と交替して、ファドの演奏と歌を披露して頂きました。リスボンの下町で生まれたファドは独特の節回しを持ち、そして片手をポケットに入れ粋なたたずまいで唄うのが伝統的なスタイルです。アルシンド・デ・カルヴァーリョ氏が最後の曲では立ち上がって、皆様と一緒に盛り上がりました。
最後に、アビオンからは丁度、結婚記念日だったご夫婦とお誕生日だったお客様に花束を贈呈し、皆様から祝福の拍手が長く続きました。今後も皆様に喜んで頂ける企画を実施致しますので、今後ともご期待頂きたくお願い申し上げます。
お盆休み期間にもかかわらず、8月のトゥインクルレースイベントは非常に好評でした。増席、増席の連続で、最終的に22名の方が参加されて、場内は終始熱気に包まれていました。
今回は女性の方がほとんどで、競馬も初めて、というご参加者にも関わらず、幸運で大当たりの方も複数居られました。勝ったり、負けたり、そのエキサイティングな気分を味わうのが楽しいのです。お帰りの際には、また次回も参加されたいと皆様が喜んでいらっしゃいました。
講談師 一龍齋貞心さんと
下町深川散策と老舗割烹の御昼食行って来ました!
天気予報によれば、曇り後雨であったため、皆様とても心配されていました。すっきりしない天候の中、出発しましたが、参加者の皆様の幸運に支えられて太陽が段々明るくなってきました。女性の方々が雨傘を日傘代わりに使わざる得ないほどの好天気になり、散策のムードも一段と高まりました。
予想より日程の進行が順調に進みましたので、時間を計って両国の相撲博物館も追加見学致しました。午後には、向島百花園の近くにちょうどうお祭りが行われていたため、それも追加で見学致しました。最後には、人形町の甘酒横丁でぶらぶらして、行列の鯛焼きを始めとし、いろいろとお土産を買われました。沢山歩いてお疲れの方達は下町風の喫茶店に入って、くつろいでいらっしゃいました。
講談師と一緒に散策するというイベントは今回3回目になりますが、毎回沢山の方々が応援して頂いております。今回の参加者の中には、3回とも参加された方も何名様かいらっしゃいました。講談師・貞心さんは講談は勿論の事、バスの中でのガイドもなさり、通常のガイドさんより一段上の魅力があると好評でした。
このようなイベントはこれからも沢山企画致しますので、皆様方のご参加を心よりお待ちしております。
河津桜並木は河津駅(伊豆急行線)近辺の河津川河口から、峰温泉までの川沿いに3kmも続いております。
河津桜は伊豆半島の河津町にある日本で一番早咲きの桜です。ちょうど私たちが訪れたときは、数日来の陽気により開花が進んだようで、並木はまさにピンク色のトンネル、下から見上げると、風が吹けば今にもハラハラと舞い落ちてきそうな花びらの間に、澄んだ青空が眺められ、絶好のお花見日よりでした。
週末ということで、この桜見物にたくさんの観光客集まり、散策しながら花見を楽しむ人ばかりではなく、車座になってビールなどを飲みながら、宴を開いているグループも見られました。
そんな人たちを当て込んで、並木道の両側には食べものやお土産を売る出店が並んで、盛んに呼び込みをしていました。海が近いからか、魚の干物や、魚介類をその場で焼いていて、美味しそうな匂いも立ち込めていました。海産物ばかりではなく、可愛らしい淡いピンク色をした桜餅を売る店も出ていました。
- 厳 -
第6回「タンゴの夕べ」
アビオン主催の第6回「タンゴの夕べ」は、おかげさまで会場の「ムジカーサ」いっぱいのお客様にお集まりいただき、アルゼンチンのピアニストで若手トップクラスと称賛されるアンドレス・リネスキー氏と日本に一時帰国された、アルゼンチンで活躍中の日本人バイオリン奏者、古橋 ユキさんとの素晴らしいピアノとバイオリンによるデュオを聴いていただきました。
また、ホールにはテーブルを入れ、赤ワインとスペイン産スパークリング・ワイン、カバをサーブして、演奏とともにお楽しみいただきました。
第6回タンゴの夕べ
日時:11月1日 19:00
会場:MUSICASA(ムジカーサ)
奏者:アンドレス・リネスキー(ピアノ)、
古橋 ユキ(バイオリン)
T様(女性):私は期待に違わぬ好演で満足しました。曲目もお気に入りの曲ばかりで酔いしておりました。
とりわけ、バイオリンの奏法が目の前で見れるのが最高です。同席した二人の先輩も演奏のウマサに舌を巻いておりました。
古橋さんのバイオリンは、将にタンゴのバイオリンで「日本人であのようなバイオリンを弾ける方は初めて」と言っておりました。
また、来年も参加したいと思いますので是非ご連絡をお願いします。
M様(男性):昨夜はとても良い雰囲気のコンサートをありがとうございました。演奏はもとより素晴らしく、また会場も素敵で堪能いたしました。バンドネオンなんかなくても、あのコンビなら充分でしたでしょう!
古橋ユキ(バイオリン奏者):アルゼンチンの人たちは、赤ワインと一緒にタンゴを楽しみます。タンゴと言うと、日本ではバンドネオンを思い出される方も多いのですが、実はもともとアルゼンチンのタンゴで使われた楽器はギターでして、その後、ピアノやバイオリンが加わり、最後にドイツからバンドネオンが入ってきたのです。ですから、今晩のようなバイオリンとピアノ、そして赤ワインと言う組み合わせは、アルゼンチンでは一般的なのです。ありがとうございました。
雨が大丈夫かな、と心配しながら東京駅前を出発しましたが、晴男の一龍斎貞心さんのお陰でしょうか(?)傘は日傘に早代わりとなりました。最初に訪ねた「掘切菖蒲園」では、白や紫そして薄紫・・・色とりどりの菖蒲が咲き誇り、風に揺られながら私達を迎えてくれました。去年のイベント「鎌倉、紫陽花巡り」で見かけた菖蒲は泥に植えられていましたが、水辺にも植えられるということを知りました。品種改良で作られた色とりどりの菖蒲には、いろいろな名前が付けられていました。中国四大美人の一人「王昭君」の名前を冠した菖蒲を見つけた時は、思わず微笑んでしまいました。
私たち一行は、堀切菖蒲園を後にして次の目的地「水元公園」に向かいました。公園と言う名にしては、想像を遥かに超えたその広さに驚かせられました。なんと、東京ドームが14個も入ってしまうのだそうです。東京に永く住んでいらっしゃるお客様も、こんな広い公園があるとは知らなかったと驚いておられました。広い公園の中ではあちこちで催し物が行われておりたくさんの人たちが思い思いの時間を過ごしていらっしゃいました。
「水元公園」の後はいよいよ柴又です。
柴又と言えば・・・・、「寅さん」?ではありません。今回の目的は帝釈天の隠れた見どころである彫刻、そして「川甚」です。帝釈天の彫刻は歴史のある素晴らしい芸術でした。400円を出すとお堂の裏まで見ることができ、外国人のお客様も多く、とても興味深そうでした。老舗の川甚ではうなぎを頂いた後、貞心さんの講釈を聞き楽しい時間を過ごしました。
今日の下町散策では、普段は何気なく見過ごしてしまう事も、説明を聞きながらゆっくり見つめてみると、身近なところに小さな発見がたくさんあることを感じました。そして、花作り、整備された公園、彫刻のすばらしさなど美しい物を後世に残した人たちのことを考えさせられた一日となりました。
数日来すっきりしないお天気が続いていましたが、今日は朝から快晴で、澄み切った青空の下、都心からもまだ白く雪をいただいた富士山を眺められるほどの好天に恵まれました。
私達は、大型バスで一路秩父路を目指しました。ビル街から、住宅の建てこんだ郊外、そして畑や雑木林が増え始め、やがて荒川上流の秩父盆地入り口に差し掛かかるころは、車窓の右も左もようやく芽吹き始めた木々が新鮮な山々の衣となって目に映えました。
秩父随一の景勝地、長瀞(ながとろ)に近い宝登山(ほとさん)入り口の「有隣倶楽部」にて昼食でした。有隣とは論語の「徳不孤必有隣」(徳は孤にならず必ず隣有)にちなんだもので、もともとは昭和3年長瀞町上長瀞地内に建築された秩父鉄道の保養施設であったものを、昭和55年になって現在の場所に移築し、一般にも開放されたものです。関東大震災後の復興期に、秩父の石灰石とその輸送で活況を呈していた頃の建築であり、その風格ある建物もまた、素晴らしい日本庭園は、中国人の私に、日本の文化の高尚さを実感させてくれました。
お食事は、お庭に面したお部屋で、名物の竹膳(たけぜん)料理をいただきました。このお料理の特徴は、陶器のお皿の代わりに竹を使ったもので、竹篭や竹を二つに裂いたところへ懐石風のお料理を盛り付け、目にも楽しいお料理でした。そしてちょうど旬ということもあり、揚げ物には竹の子もあったりして、季節感を感じさせてくれました。
午後からは、羊山の芝桜です。この芝桜を見るのは、実は初めてだったのですが、今月の始め頃から、ピンクのじゅうたんを敷き詰めたような芝桜の観光ポスターを都内の駅などで見かけたり、テレビで見たりして、「あぁ、私も本物が見れるんだぁ」と楽しみにしていました。そんな人は私だけではなく、たくさんいらっしゃったようで、羊山公園の駐車場には私たちのような大型バスが何台も来ており、乗用車もいっぱいでした。
芝桜は、桜と同じにピンク色を想像していたのですが、ピンクだけではなく、白や紫などいくつもの色があり、おなじピンクでも、濃い色、薄い色とさまざまでした。案内を読んでみましたら、なんと12種類もの色があるそうです。そうした各色の芝桜を色ごとに羊山の斜面に植えてあり、その様子はまるで巨大な春色のパッチワークを見るかのようでした。周囲の山々のまだ淡い緑色と、この鮮やかな芝桜がお互いに映えて、私は「山が笑う」という言葉を思い出しました。確かこれは中国の郭煕四時山にある「春山淡冶而如笑」から来ていたものではなかったでしょうか。また、周囲の山々の中で、武甲山の容姿は、採掘で削られた石灰石の白い肌をむき出しにしていますが、それは私の故郷、中国の山を彷彿とさせました。
羊山の斜面に芝桜で植え分けられたデザインは、日本三大祭のひとつ、秩父夜祭(12月)に引き回される山車の上で囃子手が着込む紅白の襦袢模様をイメージしたものだそうです。色鮮やかな羊山の斜面が美しいだけではなく、躍動感があり、そしてまるで色が迫ってくるように感じられるのは、こうしたデザインによるものなのかと納得しました。
2月26日(土)〜3月6日(日)
写真:周麗芳
ベストシーズンの南部アフリカを訪ねる
旅人:高城 英雄
世界第二の大きさとされるビクトリアの滝はジンバブエとザンビアの国境にある。
航空機のタラップから降り立と、飛行場の建物は外観と違って全く鄙びた小さな平屋だ。ここジンバブエの入国に際しては、少々難しさがある。外来客は総て、蒸し暑いこの平屋の中で足止めされ、ここで入国査証を取得しなければならない。
グループは少し人数が多いと、スタンプ押しが面倒なのか個人旅行者の後回しにされてしまう。一人45米ドル(2回出入出来る)も払うというのに、実に面倒くさそうに担当同士、お前やれ、お前やれとパスポートを回し合っているのである。
しかし、不思議なことに、査証をおろして貰うのを待っている私以外の団員達には、床に無造作に並べてある「トランクを持って外に出ろ」と云うのだ。
パスポートも無く、ビザも未だなのに邪魔だと云わんばかりだった。
小一時間もかかって漸く入国査証を取り付け、屋外に出た。団のメンバーとガイドの「ジョージ」が痺れをきらしていた。ジョージは5月に来たときに会った面白い人なつっこいショナ族の男である。そしてよく見るとかなりハンサムで今年の秋、結婚するのだと云う。彼は英語でしか我々にはガイド出来ないのだが、日本語の歌をたくさん知っていて、話の合間に良く歌ってくれる。これらの歌は、ほとんど日本から一人、二人で訪れるお客様に教えてもらったのだと云う。英語を余り解さない日本からのお客様には一体どう対応しているのだろうか。これらの日本の歌が武器となって、歌いながら意志疎通をはかっているのだろうか。
「ジンバブエや今夜から泊まるホテルのあるザンビアは、南アフリカと違って黒人の国だから、何処へ行っても黒い肌の人で一杯だよ。」
「でも、皆良い人、優しい人ばかりだよ。ちっとも恐ろしくなんか無いよ」
「昔、11世紀ころ、ここにムタパ王国がバントゥ語族のショナ族とロズウイ族の連合王国として造られたのが始まりでね」と言って言葉を切った。「それ以前は皆さんが知っている、ホッテントットやブッシュマンが土着民として住んでいたんだ」と話を続けた。「その後、たくさんの変遷があって、1979年にロバート・ムカベ(ジンバブエ・アフリカ民族同盟を率いて、初代大統領になる)がロンドンのランカスター・ハウスに赴きイギリスと協約を結んで、ショナ族を中心とした現在のジンバブエが出来たんだ。つまりそれまで植民地(ローデシアの一部としてイギリス人の統治下にあった)のようであったものから完全に独立したのですよ」と話を終えた。
このような話を聞きながら、ヘリポートへ向かった。ヘリポートへは、ほどなく着いた。ビクトリアの滝を先ず上空から全体を見て、そのあとで、ザンビア側・ジンバブエ側、両方の地上からゆっくり見極めようという考えなのである。
世界第二の大きさとされるビクトリアの滝はジンバブエとザンビアの国境にある。
ダイヤモンドが取れるキンバリーあたりでは、5時頃が夕暮れだった。飛行場を出たのが5時一寸前だったので、夕暮れが早く迫ってくるのではと内心気が気ではなかった。
しかし、ジョージが「9月の日暮れは6時15分過ぎで問題ないよ」というので一寸安心した。だが考えてみると、5人乗りのヘリ1機に15分間隔、4交代で乗るのだから時間がかかるのではと、やはり心配なことには変わりない。
リビングストン島や幾つかの島が川の中に見えるが、多分プリンセス・ビクトリア島の上であったろうか、かなり大きな島だ。眼下の低木林の中に象の群が見えた。
20分ほどの飛行でヘリポートに戻り、地上に降り立つと、空を赤く染めながら真っ赤な太陽が地平線に落ちてゆく。サビ・サビの夕日より大きく見える。待合室に戻ると、前に飛んだ皆から「飛行時間がもう一寸長いと良いのに、せめて滝の上で2回くらい旋回してくれれば良い写真がとれるのに」と訴えられた。もうすっかり夕闇があたりに立ちこめてきた。
ジンバブエからザンビアへは、陸の国境を通らねばならない。ジンバブエ側の係官は終始にこやかで簡単に出国の手続きが終った。ザンビア側での手続きはそうは行かなかった。今夜から泊まる「リビングストン・ホテルから事前にビザの申請が出ているはずですが」とジョージが係官に云うと、ニコリともしないで、物憂そうに腰をかがめてリストの束を探り、やおら1冊を取り出して机の上に無造作に放り上げた。ぱらぱらと頁をめくり「リストの中には無いよ」と係官はそっけなく云うのだ。係官になにか話かけられる度に、ジョージは「サー」付けで受け答えし、「私が探してみます、お手を患わしては恐縮ですから、係官様」とファイルを手渡して貰い、記載してある名簿の中に私達の名前を懸命に探す。名簿はランダムに名前が並べられてあり、団体名などは記載されていないのだ。やっと探し当てて相手の機嫌を損ねないように説明する。「この人達がそうだと思いますが、印を付けておきましたのでパスポートと照合してみて下さい。係官様」とジョージは細心の注意を払い顔色をみながら、機嫌を損じないようにお願いする。
国境からホテルまで僅か20分くらいの距離のところを、入国管理事務所で随分時間をとられ、1時間以上かけて通過したのである。観光を推進していながら、ここでも客扱いはしてくれていないのが不思議である。
ザンビア側にあるロイヤル・リビングストン・ホテルは2階建てで、8部屋づつある離れ屋風の建物が新月の闇に幾つか浮かんでいた。中に入ると部屋は広く、洗面所とバスルームがたっぷりあってほっとした気分になる。
ベッドの上に蘭の花びらがまかれてあって良い香りが部屋一杯に拡がっていた。男二人の部屋なのにだ。なにしろここのネームリストにはミスター&ミセスになっているからだ。日本から送ったローマ字のリストでは、彼らは日本人の名前も名字も判別出来ないのだろうか。あるいは、男同士が同室なんて考えられなかったのかも知れない。私の名字がいつのまにかミドルネームになっていて、同室者の名字がその後に続き、ご丁寧にミセスがつけられて「Hideo TAKAGI IZUMI Mrs.」となっている。
その話を聞いた皆は、新婚夫婦と間違えられたのではないかと盛んに冷やかすと「俺はオカマじゃないよ」と同室者はむきになった。
食堂はオープンエアーのテラスで遅い夕食を摂った。ここから明かりに照らされた大きなプールやバブーン(ひひ)がとび跳ねている広い芝生と、光を受けてカクテル状の波が光っているザンベジ川が望める。朝はどんな眺めになるのだろう。
朝、ザンビア側の滝に出掛ける、ホテルから10分ほど歩けば滝の入り口だ。入場料を払って中に入る。滝の音はあまり聞こえない、5月に訪れた時は名前の通り、轟音が鳴り響き渡っていたのだったが。
ザンビア側の滝は「東滝」と呼ばれ、740mの滝幅である。水量が少なく、今は白糸の滝になっていてちょっと寂しい。滝壺に沿ってジンバブエとザンビアの国境を分けている川の突端・ナイフエッジという場所まで行くと、ジンバブエ側のレインボウ滝が間近に望める。レインボウ滝は水量がやや多く水しぶきをあげ、その上に美しい虹がかかっている、写真の被写体にはもってこいだ。ザンベジ川は地面の第一の裂け目に落ち、滝となっている。落ちた水は第二、第三の裂け目を縫って流れ下っている。第一と第二の間にビクトリア大橋がかかっていて、その中心にバンジージャンプが出来る場所があって人だかりがある。昨夜時間をかけて渡って来た、国境を分ける橋である。
公園の入り口にある小屋の中に公園の全体図が掲げられてある。そこの前に皆を集め、ジョージが説明をする。「地図の上部に、モシ オヤ ツンヤと書かれてあるでしょう、土人の言葉で雷鳴の轟く滝という意味なんです。」「イギリスの伝道師でアフリカ探検家だったリビングストンが女王の命を受け、南アフリカにやってきて各地を探検していたのですが、その途中1855年にこのあたりにやって来ると轟音が聞こえ、音を頼りにこの滝を発見したんです。そしてその素晴らしさに眼を奪われ大いに感動したんです。この喜びを本国に伝えようと、発見した記念にビクトリア女王の名を滝に付けたのが今日に至っているんです」「そして彼は、探検と伝道を続けながら北上を続けていったんです」などと話をする。と、物知りの同室者が側から「そうだ、リビングストンはその後、アフリカ中部で行方不明になったんだよな、そして確か、アメリカの新聞記者スタンリーがタンガニー湖畔ウウジ近くで彼を発見したっていう話を子供時代に読んだ本で覚えているよ」と付け加えた。
リビングストンの像の前には、デビル滝があり、今回は水こそ被らなかったが豊富な水が滝壺に落ち、水煙を舞い上げ、その上に美しい虹を浮かべていた。滝に沿った遊歩道を歩くと小路は低木を縫って続き、ところどころでインパラ、クドゥやウオーターバックなど鹿の仲間が顔を出す。
メインフォールはさすがに大きい。水煙が多量に上がっていて覗けなかった滝壺を、レインボウフォールで今回は見ることが出来た。なるほど、滝壺までの落差が高いなあと感嘆した。もし、これが5・6月の水量豊富な時期だったら、滝壺から巻き上がった水を嵐の中にいるように浴びて、全く見ることが出来なかったのだからこの時期に来て、滝の総てを見ることが出来た感じがした。
アフリカン・クイーン号はザンビアのロイアルリビングストン ホテル宿泊者専用の観光船である。
船は二階にもデッキを持ち、一階には中央部に机が置かれ、暖かい食べ物の入ったスパンがおかれている。デッキの一角にはバーカウンターがあってちょっと洒落た双胴船である。船縁には適当に椅子とテーブルが配置されている。皆、手に手に飲み物を持って、思い思いの場所に陣取ってクルーズの出発を待った。船はサンセット・クルーズと名打たれ、ザンベジ川を遡りながら、点在する島の川岸に現れる動物達や、川面に見え隠れするカバやワニを観察しながら沈む大きな夕日に浸るのが目的なのだ。
サファリ・ゲームと同じように、見張りが動物を見つけ、船を近づけて観察しやすいようにしてくれる。やはり、象が大きいから直ぐ見つかる、クドゥの群れやイボイノシシの群が現れる。水面にさざ波が立っている、カバだと船乗りが叫ぶ。4〜5頭のカバが水から鼻を出しているのが見えた。
「カバは、通常寿命が40年位、大きさは5トンくらいまでになります。水中に潜れる長さは普通3〜4分で、潜っては鼻を出し、又潜るということを繰り返しています。長い時には30分も潜っていられるのですよ。でも、かれらは草食動物で、岸辺にそれぞれ縄張りを持っています。縄張りは糞をまき散らして決めるのです」とアナウンスされる。
ジンバブエとザンビアを分けるロングアイランドの岸辺に「ワニ」が見えると見張りが指さす、眼をこらすが、一向に見えない。すると物知りの同室者が叫ぶ「ほら、鳥が見えるだろ、あの鳥はワニチドリと言って、ワニの背中を歩き廻ったり、歯にたかった虫を食べる寄生鳥だよ!だからあの下の、まるで丸太のように横たわっているのがワニさ」。皆感心して聞いている。
川を遡り、ロングアイランド島を一周したころ日が落ちてきた。待望のザンベジ川に落ちる夕日の見物が始まる夕日が次第に落ちてゆく。この時期の太陽は5月の太陽に比べるとやや小さい。太陽は次第に赤みを増し、空や水を静かに照らす。赤く染まった雲と水、通りすがった小舟がたてた、細波の波紋を夕日が照らす。白い月が東の空から太陽を追いかけて現れる。赤い光と白い光が、きらきらと波紋の上で小さく交差する、神秘的な光景である。船が陸に近づくころ夕闇のとばりが一面を包んだ。
早くから眼が醒め、相棒と身支度をして表に出る、今日も良い天気だ。庭に廻ってみると、芝の緑が美しい。木立の合間にハンモックがつり下がっている、一体誰がその上で休むのだろうか。バブーンが飛び跳ねている庭伝いにレストランに向かう。
空気が澄んでいて美味しく、都会とはまるで違う。レストランに着いてパラソルが開いているテーブルに座る。太陽は未だ清々しく熱を感じない。芝で覆われているここの庭園は広く、昨夜月光を浴びてきらきら光っていたザンベジ川の流れがその向こうに見える。プールではヨーロッパ人の夫婦が泳いでいる。静かな時の流れに身をゆだねていると心底から幸せを感じる。ボーッとしていたが、ウエイトレスの声で吾にかえった。
メニューを見ながら注文をする。コーヒーとグアバジュース、目玉焼きとトーストをと云う。ウエイトレスは分かりました、すぐお持ちしますが、と云いながら室内を指して「あちらに、果物やその他いろいろなものが取り揃えてありますから、併せてお好きなものをお取りになって結構ですよ」と云う。
朝食をゆっくり食べていると、仲間が段々にやって来て思い思いにテーブルに着いた。
今回私たちが訪れた南アフリカの中では、サビ・サビやビクトリア・フォールズの滝などは、大自然の中に私達を優しく包み込んでくれる場所である。悠久な自然の中に身を置いていると命が洗われるような気がして、このままずっと包み込まれていたいなとつくづく感じる。アフリカを訪れる人には、慌ただしい旅ではなく、何日か余裕をもって、ゆっくりした旅で訪れた方が良いとお勧めしたい。
新しい国内線との距離は200mほどあるが国際線との距離はそう苦にはならない。チェックイン前の免税申請カウンターはシステムがしばしば変更になるが余り面倒だとは感じない。国内で買い物をした際払った税金を還付してもらう手続きなのだ。
チェックインの前にスーツケースのレントゲン検査を受け、パスポートと航空券を提示すればボーデング・パスをくれる。そこからが問題が起きたのだ。
出国カウンターを過ぎると手荷物検査がある。ここが鬼門だったのだ。旅行中私はカメラ・バッグを財布替わりにしていて、ドル現金を購入時の銀行の封筒ごとその中に入れて置いていた。
レントゲンを通した反応は皆無だったのに、何故か係官がカメラ・バッグに手を突っ込んで現金封筒を見つけ「持ち込み時にこの金を申請したか」と聞いてきた、勿論、入国時に書く入国カードの裏面にある所持金欄に記載したのだが、複写式になっていないからコピーは当然返してくれていない。
「入国時に申請をしたが、受け付けたコピーは貰っていない」と申し立てると担当官は改まった調子で「そんなことは無いはずだ、別室で検査する」というのだ。しかしそう云いながらでも係官の目の動きは私に何かを訴えている。
ようするに「金をくれ」ということだと、ズボンのポケットにあった使い残しのドルを渡すと、素早く自分のポケットにしのばせて[OK]と通してくれた。
やれやれ、私が皆を世話していた様子を彼は添乗員だから金をもっているのではと目を付けていたのだろうか。
手荷物検査を終えた仲間が、免税申請で認められた書類を手に、現金化するため行列に並んでいた。その先を見ると、書類に従って計算をして小切手を発行しているところなのだ。出来上がった小切手を受け取ってから銀行の窓口で改めて現金にしなければならない、ややこしいシステムになっている。いやはや時間のかかることである。
列に加わっていると、一人の女性が近づいて来て「ちょとちょっと」と私の袖口をつかみ近くにあった女性用トイレに連れ込もうとした。咄嗟にカバンを仲間に預け、引っ張られてゆくと、トイレの中で「さっき、男の係官にお金を渡したでしょう、私にもちょうだい」と云いながら自分の口を手で押さえながら、「シー、口を利かないで、黙って早く、早く」と云うではないか。
驚いた、完全に二人ともグルになっている。仕方なくポケットを探り、今さっき友達から返してもらったばかりの20ドルを渡すと解放してくれた。
ヨハネスブルグの出国手続きの際、手荷物検査官には気をつけなければ駄目ですよ!この様な係官ばかりではないでしょうが、気を付けるに越したことはありませんよ!
ポケットにたくさんお金の入った財布や、カバンにたくさんお金を入れて置くと危ないですよ!
私は40年もこの仕事をしているけれど、このような経験は初めてだった。
アフリカ大陸永遠の魔法
旅人:高城 英雄
タンザニアが独立し世界の仲間入りしたのは、1961年12月のことで、第二次世界大戦が終わってからだ。以降、都会には急速に西欧文明が浸透し、かつての野生でロマンチックな面影は次第にその影を薄めてしまいつつある。
しかし、国土のあちらこちらに点在する自然公園や動物保護区の中は、誰にも犯されない昔がそのまま残っていて、訪れてみると、アフリカ大陸の虜になってしまう。アフリカの息吹に浸ると「無限」や「永遠」の世界に漂っている感じになってしまう。この魔法にかかると、日頃の憂さやストレスから解放され、心の底から沸き上がってくる人間としての喜びを感じ味わうことが出来るから不思議だ。
だから文明社会に住む人々はこれを求めて遠くからやって来る。人々はその魔法の虜となり、幾たびもその呪縛に身を任したくなって訪れるのだ。 私もこの魔法に触れてもう6年、幾度となくアフリカの地をさまよっている。
国土は88万4千平方キロ(日本の約2.3倍)、人口は36百万人。3月〜5月は大雨の季節で6月〜9月は涼しく、10月〜3月は暑い。
マラリア予防薬は、今では必要なくなったが、防虫剤が必要だ。サファリなどに出掛ける場合は、夏でも朝晩寒いので毛糸類やジャケットが必要だし、手袋があればなお安心だ。他に帽子、サングラス、双眼鏡、懐中電灯(ロッジによっては貸し出し用がある)、蚊取り線香などを必帯していれば安心である。
ンゴロンゴロ自然保護区は南北16km、東西19km、標高1800m、深さ600mの巨大なクレーターの底にある。ここには、山あり森あり、湖あり、沼も泉もある。又サバンナもあって動物にとっては天国となっている。他の動物保護区では雨期・乾期で動物たちは移動するが、ここではほとんど移動することがないと言って良い。
クレーターの縁に沿って65kmほど走るとセレンゲティ国立公園に入る。ここは一面サバンナ(マサイ語で果てしない草原)である。その中に立つと、見渡す限り続く平原のサバンナは見事で、ユネスコの世界遺産に登録されている。
サバンナの東端にアフリカ大陸の最高峰、キリマンジャロが富士山のようにその勇姿を見せている。ちぎれ雲が浮かぶセレンゲティの空はどこまでも青くアフリカを一杯に感じさせてくれる。
ここを訪れれば、ケニアの動物保護区の生態系と同じ動物達に出会うことが出来る。肉食動物の多さは他に比較できないほどだ。ライオン、チータ、 豹、ジャッカル・・・ なんでもいる。 もちろん神様がいたずらでこの世に送ったといわれるヌーは、100万頭もいてここの主だ。アフリカの民話には「神様が動物を作り飽きて、ウシの角、ヤギの髭、馬の尾をつなげて作った動物」だと伝えているそうだ。
迫力あるあの「ヌーの大移動」はここでしか簡単には見られない。訪れるなら11月から翌年の6月迄がベストだ。ヌーたちは10月まで隣国のマサイマラ国立保護区に移動している。3月〜5月は大雨期だからだ。反対にケニア側のマサイマラでは、この大移動を8月〜10月にかけて見ることが出来るということになる。
首都ダル・エス・サラームからアルーシャ迄2時間30分、アルーシャから220km、きれいに舗装された道路を走って約3時間で到着する。 また、時間さえ充分あれば、ンゴロンゴの北東へ2時間弱ドライブして緑多いマニャラ湖を訪れることも出来る。そこには、数百万年前の古い地層(オーストラロピテックス)が断層になって顔を見せている。
ほぼ中心にマニャラ湖があり、囲むように拡がっているのが325平方キロメートルの国立動物保護公園マニャラである。
渇水期でなければ、水辺にはフラミンゴの群れが踊っているし、ダチョウ、キリン、ヌーの大きな群れがやってくる。象はたいがい2〜3頭で水浴びにやってくる。
それらを狙うように昼間でもライオンが草むらに身をひそめていて、ショーのようにヌーを襲いハンティングをしてみせる。
このような光景に出くわすと、他の地とはひと味違ったゲーム・サファリを楽しめる。それはそれは、エキサイテングで興奮のるつぼの中にいるようだ。
梅雨の台湾。祝山線に乗ってご来光を拝むハプニングを楽しむ旅。
6月下旬の台湾は梅雨が空けていると思って期待して訪れた。しかし今年も天候不順なのか、一日おきに雨模様で梅雨だった。
新空港がある桃園からバスに乗り、高速を走りながら見る郊外の景色は、5〜6年前とすっかり様相が変わっていた。桃園空港から市内に入るまでは、立体交差する何本かの高速が走っていて、緑多い景観が損なわれてしまっていた。やはり首都の宿命か?昔、どっしりと緑の森を従えて構えていた圓山大飯店は、道路に廻りを削られ狭い土地に押し込められているように見え、オレンジ色の新館の建物が突出して窮屈そうに建っていた。当時は緑の森に別荘の様に建っていた佇まいは、アプロ-チの便利さや都心からの時間短縮と引き替えにその優雅な面影が薄くなってしまっていた。周囲からの景観はゆうに30%以上損なわれている。
今回の旅の目的は三つあった。一つ目は昨年初から漸くダイヤ通り運行し始めた新幹線に乗ること。二つ目は嘉義という街から阿里山森林鉄道に乗って阿里山に上り、山頂でご来光を拝むことにあった。最後の一つは、台湾在住の友人を訪ねることであった。
二日目、期待の新幹線に乗る日だ。現在は台北駅の地下まで延長されている新幹線駅は、ほんのちょっと前まで、一つ手前の板橋駅が始発駅だった。
地下ホ-ムで我々を待ち受けていた電車は、日本で製造された新幹線車両だから外見は見慣れている。一昨年運行開始予定が何故昨年春まで正常ダイヤで運行されなかったのだろうか。単に日独仏の合作だからという理由だけではないようだ。台湾政府が軍備増強の為に購入した戦闘機や兵器の決済の見返りとして、それぞれの国に顔を立てたことに原因があるということだ。別々の三者を合体させるのだから、不具合が生じるのは当たり前だった。あまり不具合が重なったので台湾政府は契約を反故にして、純粋に安全性や性能の点で日本のシステムに統一しようと真剣に考えたことがあったようだが、それは結局出来なかったようだ。これが運行までのモタモタの原因だったようだ。実際、システムはドイツ、運転手はフランス人で、システムを動かす人たちや運転手に賃金を外貨で支払い続けねばならないのだそうだ。運転手を簡単に台湾人や日本人と入れ替えることは出来ない事情がその辺にもあったといわれる。
車内の座席チャ-トのプログラムが発券機に付いていないようで、購入するまで座席番号は分からないというのが不思議だった。日本の新幹線車両を日本の技術ソフトで走らせるならば、こんな問題も含めてもっと早く乗客に便利な運行にこぎつけることが出来たのだろうけれども、国家間の裏事情は複雑のようで不可解だ。
瞬間最高時速300km、平均290kmくらいで1時間20分、正確に嘉義の駅に着いた。普通車の車内は3列、2列で車内販売も全く日本と同じだ。一等車も日本と全く同じ仕様で、違うところは車内の清潔を保つ要員が頻繁に車内を行き来してゴミを集めていることと、出入り口で車掌や売り子たちが車内に向かって愛想良く挨拶しないことくらいか。忘れてしまっていたが、日本の新幹線のグリ-ン車内サ-ビスで飲み物とおしぼりがあった一時期があったが、台湾の一等車内サ-ビスにそのおしぼりと飲み物がついていた。
台湾新幹線の乗車券には熟年割引50%があることが台湾在住の友人の話で分かった。早速普通乗車券を用意してくれていた現地の旅行代理店に問い合わせてみると、それは在留者対象だけだという。どうも納得が行かなかったので駅に行ったとき、確かめてみることにした。するとやはりビジタ-にも適用されることが分かった。ようするに現地の旅行会社も情報不足か、来台者が来る数日前でないとその年齢などの詳細が分からないということで、面倒でいいかげんな返事をよこしたのかも知れない。実際2〜3日しか滞在しないグル-プの名前も年齢も直近まで分からない相手だからまともな対応をしてくれないのは当たり前かも知れない。
65才以上でパスポ-トを提示して年齢が証明出きれば、割引で購入出来る。もっとも今回は、購入依頼の際に全員70才を越えていることを現地の旅行会社に知らせていなかった当方に落ち度は100%あったのだが。どうも普通運賃で支払ってしまったことが癪に障ってしようがなかった。
そこで、帰路、窓口で既に用意されていた普通乗車券とパスポ-トを提示して、1等(グリ-ン)車への乗車変更を、最悪差額を払っても良いと試みてみた。するとグリ-ン券3000円相当分は往復普通運賃と熟年者割引への変更分に吸収されて若干のお釣りがきたのだ。やれば出来る。やっと疑問から解放されて溜飲が下がった。
阿里山森林鉄道も同じ手口で乗車券の割引購入が出来た。
森林鉄道は洒落た赤と白のボディカラ-の客車4両編成である。機関車は三菱製ディ-ゼル、かつては弁慶号のような形をしたアメリカ製シェイ・ギヤ-ド・ロコが牽引していた。駅には蒸気機関車の雄姿が写真となって飾られていた。今でも要請があれば特別仕立てをしてくれるようで、鉄道マニアの人気を集めているのだそうだ。
レ-ル幅は75cmの狭軌で時速30kmくらいの速度でゆっくり登ってゆくのだから、以前に乗った、ペル-のクスコからプ-ノ(チチカカ湖湖畔)までの山岳電車に匹敵する。ペル-では、もの売りが走っている電車に飛乗ったり飛降りたりしながら物を販売していたのだからやはり平均時速20km以下だったのか。
しかし、車両そのものは両者断然違う。ペル-・レイルの車両はウッドチェア-、こちらは25人乗りの車両で、回転式座席でリクライニングのソフトチェア-である、空調も勿論完備している。ペル-に較べれば一等車だ。
空調があって冷房が利いているとはいっても、気温は100mで1℃違うから下界が32℃でも800mも上昇すると8℃くらい下がって、もう冷房は必要なくなってしまう。実際寒くて仕方なかった。
1549mの標識がある十字路駅を通過して間もなく突然電車が急停車した。落石防護柵の隙間から、土砂滑りで落ちたおびただしい木や石が数十メ-トルに亘って見えていた。これは大変!42番目のトンネルの出口が落石で塞がれていたのだ。時速20kmが幸いしたのか線路上を滑空することもなく、落石にも乗り上げずにトンネル入口付近で停車してくれた。事情が分かった乗客は全員安堵で胸をなで下ろしていた。
しばらく、乗務員が非常用電話でやりとりを続けていたが、やがて電車は何事も無かったように逆走を始めてさっき通過した十字路駅に戻った。
30分ほどでホテルの送迎車が駅下の道路まで迎えに来てくれたので、予定より2時間ばかり遅れてホテルに到着出来たのである。
後で、私たちは冷静に考えて見ると危なかったけれども、運が強く非常に珍しい事件に遭遇したことになったのである。
同じこの日、台北近郊の陽明山でバスが転落して死傷者が出たことを夕方のニュ-スで知った。いずれも二日ほど前まで連日降っていた雨で地盤が緩んでいたせいであった。
この頃の夜明けは5時20分、日本より大分遅い。翌朝はラッキ-なことに嘘のように晴れていた。3時半にモ-ニングコ-ルがあって4時20分発の電車に乗ることになった。
ご来光を見に来る乗客の為に、阿里山駅から更に高い祝山駅まで6kmばかりを観日列車と呼ばれる電車を祝山線の上をロングシ-トの車両で毎日走らせている。
ご来光を見にきた人たちばかりだから、週末は当然満員だ。一台目の電車に私たちは乗れなかった。乗客が多い時は2列車運行するのだそうで、10分くらい遅れて来た電車は空いていた。この駅・沼平から乗車の客は全員座ることが出来た。
祝山駅で下車して150mほど更に山を登った海抜2484mの展望台に到着するとたくさんの人たちが集まっていた。夏至のころは玉山の左に聳える3100mの郡大山付近から太陽が昇ると云われている。すでに空は明るいが未だ太陽は顔を出していなかった。やがて雲が茜色に染まってくると曙光が現れだした。
日の出だ。荘厳な雰囲気が周囲に漲ってきた。手を合わせて拝む人、私のように夢中になってシャッタ-を切る人などが一体となった。
現地に行くまでは、新高山は阿里山だと思いこんでいた。新高山は現在玉山(3952m)と呼ばれていて、阿里山が玉山山脈(3000m級の山々)の前衛となっている別の山脈(2300m級)の総称だってガイドさんが教えてくれた。
しかも新高山の命名は明治天皇が「本州の富士山以上に高い、新しい地にある山」という意味で名付けられたのだと始めて知った。阿里山は檜の原生林に覆われているので、素晴らしい材質の檜が多く、1911年阿里山森林鉄道を開通させて以降、伊勢神宮の鳥居や本殿改築材として切り出され運ばれていたと話してくれた。
私たちは森林浴を兼ねて檜の原生林中を歩いた。高く聳える木立の中は清々しく、ところどころに切り出された大木の切り株や雷に打たれて朽ちたのか、祠状になっている太い根がア-チのように散在していた。1時間ばかり歩いて引き返したが、巨大樹林やタイから寄贈された七宝の仏像が祀ってあるという慈雲寺までもう少し歩けば良かった。ホテルに帰ると突然雨が降り出して来た。
またまたラッキ-で、ああ、あれで引き返して来て良かったのだと自らに言い聞かせた。
本当に野生動物の宝庫だ
旅人:高城 英雄
インパラはどこでも群れを作っていた。いつもちょっと小高いところに見張りでもしているように立っているトピ・ビ-スト。これと良く似ているけれど茶色で腹が薄白く角が鍵状に上を向いているハ-テ・ビ-スト。お尻が丸い白毛で覆われているウオ-タ-バック。小鹿のような身体に綺麗な黒い横線の入ったスマ-トなトンプソンガゼル。このガゼルより一回り大きくスカイラインのような線が入っていない茶色のグランドガゼル。1頭だけ飛ぶように枯れ草の上を駆け抜けたデックデック等、車の走る道を挟んであちらこちらで見ることが出来た。
マサイマラでは、象は2〜3頭が遠方の塩湖の中に見えていたし、マラ川の畔の茂みに7〜8頭の群れと突然遭遇したこともあった。アンボセリでは大群が沼で水浴びをしている姿を楽しめた。マニャラ湖畔の森の中で群れを見つけた時は皆興奮した。茂みから出てきた象たちは私たちの車の直ぐ後ろを通り抜け、砂場に出て、しきりに砂を鼻に含んで身体に振りかけ始めた。子象は痒いお尻を倒木にしきりに擦りつけていた仕草がとても可愛かった。
「茂みにはたくさん虫がいて、肌を刺されて痒いから茂みから出たら砂をまぶしたり、ああやって倒木に痒いところをこすりつけているのさ」とミンディが説明した。
マサイマラではこんなことがあった。ジョセフが何かを見つけ、双眼鏡をダッシュボ-ドから取り出して「クロサイがいる。見てご覧」手渡された双眼鏡で探したが、私には見えなかった。同乗していた他の二人は双眼鏡で見ながら「見える、クロサイだ〜、角が見えるよ〜」と叫んでいた。私は、随分、目が悪くなったもんだなと実感させられ、老いを感じて落ち込んでしまっていた。だいたいクル-ガ-と違って、なかなかサイを見つけることがマサイでは最近難しくなっているようだ。
キリンは所々に対でいた。マサイキリンで模様がアミメキリンに較べるとはっきりしない、ツタの葉模様だという。
マサイマラやアンボセリ、ンゴロンゴロでは群れも多く見ることが出来た。木の葉を食べているところや首を互いに擦り合っている情景などもかわいらしかった。子供のキリンも多くいた。出産が終わって、子育て期に入っているのだ。
色黒のキリンが1頭いた。「黒く色が変わって見えるのはもう年取ったキリンだよ。群れから離れてただ1頭、死を待っているのだよ」ミンディが言った。人間と一緒だ。年を取って皺が増えて身体の線が崩れてくると死と対決するようになる。「我々と一緒だね」誰かが呟いた。
ジャッカルが1頭、私たちの車を出迎えるように、道にたたずんでいるのに出会った。ジャッカルって大きくどう猛かと思っていたが、1m弱くらいの足長で尾が体長の三分の一くらいのスマ-トな身体をしたかわいいものだった。背毛が黒く「背黒ジャッカル」というのだそうだ。「オ-カミやコヨ-テと同じ仲間で、全くどう猛ではなくて小動物や昆虫類を食べているのだ」とジョセフに教えられた。